宝はマのつく土の中!  喬林知==著  本文イラスト/松本テマリ  ああ弟よ、きみを泣く。  きみ死に|給《たも》うことなかれ[#「ことなかれ」に傍点]……いや、俺は|親父《おやじ》と|違《ちが》って事なかれ主義では絶対にないから。  もちろん俺が都知事となった|暁《あかつき》には、所得による税率の格差を無くし、新・都市博Rを|開催《かいさい》し、|芥川賞《あくたがわしょう》、|直木賞獲得《なおきしょうかくとく》は無理でも「新シャボン玉ホリデーHG」の台本くらいは毎回書き下ろすつもりだ。  だが今は十年後の都政を考えている場合ではない。命と同じくらい大切な弟が、よりによって異界の地で|行方《ゆくえ》不明なのだ。聞けばそこは空飛ぶ|骸骨《がいこつ》や、意思伝達をしあう骸骨までもいる|恐《おそ》ろしい場所らしい。そんな骸骨アイランド……いや恐ろしい世界に、大事なゆーちゃんを置いておけるものか。  思えば子供の|頃《ころ》から弟を助けるのはいつも俺の役目だった。洋式便器の便座を下ろし忘れて座ってしまい、すっぽり|墳《はま》って泣き|叫《さけ》ぶ|有利《ゆーり》を救出したのは、親父でもお|袋《ふくろ》でもなくこの俺だ。今頃きっと弟は、見知らぬ土地で心細さのあまり「おにーちゃん、おにーちゃん」と泣いているに違いない。  待ってろ、ゆーちゃん! おにーちゃんが助けてあげるからな!   ナイアガラの滝《たき》を|潜《くぐ》り|抜《ぬ》け、いま、兄がゆきます。      1 「単なるボディーガードのおにーちゃんかと思ったら」  ヘイゼル・グレイブスと呼ばれた女性は、その名のとおり|榛色《はしばみいろ》の|瞳《ひとみ》を|眇《すが》めた。 「……|驚《おどろ》いたね、何であたしをそんな名前で呼ぶ?」  彼女は|汚《よご》れた|白髪頭《しらがあたま》を|振《ふ》り、燃え盛る|炎《ほのお》に|乾《かわ》いた燃料を|放《ほう》り込んだ。|臭《にお》いからして多分、動物の|糞《ふん》だ。|確認《かくにん》するのはやめておこう。 「あんたたちは一体何者だい。遠い遠い|魔族《まぞく》の国の王様がいらっしゃるという|噂《うわさ》を耳にしたと思ったら、それらしき|御《ご》一行様はごく|普通《ふつう》に、この世界には存在しない言語を|喋《しゃべ》ってる。おまけにボディーガードの一人は、|滅多《めった》に使われないあたしのファミリー・ネームまで知っているときた」  存在しない言語だって?  無意識に喉元に手をやってから、おれは謹にともなく尋《たず》ねた。 「……今、|何《ナニ》語《ご》で喋ってますカ……」  老女は|奇妙《きみょう》な顔をして、おれとコンラッドを|交互《こうご》に見比べた。 「英語だよ。あたしがうっかりCome onなんて言ったのが悪かった。あんたたちはちゃんと英語を話してる。独特の発音で、|何処《どこ》の|訛《なま》りかはさっぱり|判《わか》らないけどね。ボストンかトレントンのような気もするが、時計を持ったおかしな|兎《うさぎ》みたいにも聞こえるね」 「英語だって!? そんな|馬鹿《ばか》な! お|婆《ばあ》さ……じゃない、すいませんミス……いやミズ、ベネラ、かな。おれはアイキャントスピークイングリッシュですよ」  しまった、意識すると教科書の例文みたいになってしまう。中学校で英語を話せない英語教師に習ったのだから、もしも通じているとしたらそれ自体が|奇跡《きせき》けれども、コレは|林檎《アポー》デースとか言っているのだろうか。  老女は|皺《しわ》の|浮《う》いた|両腕《りょううで》を|腰《こし》に当てて、こちらの|困惑《こんわく》を|豪快《ごうかい》に笑い飛ばした。 「|礼儀《れいぎ》正しい少年だね。言ったろう? そう気を|遣《つか》ってくれなくてもいいよ。いくら元気だったとはいえ、この国に来たとき|既《すで》に六十を過ぎてたんだ。今じゃ女に見えるかどうかだって|怪《あや》しいもんさ」  |口振《くちぶ》りからすると彼女は土地生まれの神族ではなく、何処か異なる場所からやって来たらしい。瞳の色から判断して、確かに|生粋《きっすい》の神族とは言い|難《がた》い。 「それにしても|坊《ぼう》やの喋り方は|面白《おもしろ》いね! 子供が習う例文みたいなお|堅《かた》い単語と、その辺の若いのが使いそうな言葉が混ざってる。まるでマザーグースとソープオペラを同時に聞いているようだ」 「あなたの話も実に興味深い」  ずっと|黙《だま》っていたウェラー|卿《きょう》が、やっと口を開いた。思いのほか深刻そうな声だ。 「ボディーガード、マザーグース、ソープオペラ。こちらには無い単語ばかりだ。ヘイゼル、あなたが何処から来たのかは判っている。だが、どうして|此処《ここ》にいるのか教えて欲しい」 「質問していたのはあたしだよ」  彼女は僅《わず》かに顎《あご》を引き、下から睨《ね》め付けるようにコンラッドを見た。すっかり白くなった|前髪《まえがみ》の奥で、炎に照らされた|赤褐色《せっかっしょく》の瞳が光る。|背丈《せたけ》はずっと小さいのに、まるで|挑《いど》むようなきつさだ。 「確かにあたしはヘイゼル・グレイブスだが、|聖砂国《せいさこく》では一度としてそんな風に名乗っちゃいない。|奴隷《どれい》にファミリー・ネームなどないからね。それをどうして異国からのお客が知ってるんだい? イェルシーがあたしたちを|灸《あぶ》り出そうとして差し向けたにしたって、こんな奇妙な話はないじゃないか」  小屋中を照らす火の中で、短くなった|薪《まき》が|爆《は》ぜた。|破裂音《はれつおん》と共に火の粉が|跳《は》ねる。 「あんたは何者だい、この坊やの護衛というだけではなさそうだね」 「気安く指差すんじゃねぇよ」  ヘイゼルがおれに人差し指を向けた|途端《とたん》に、それまで口を|噤《つぐ》んだきりだったヨザックが短く言った。聖砂国では通じるはずのない共通語だったが、|威嚇《いかく》には|充分《じゅうぶん》だったらしい。彼女はすぐに手を下ろし、発言者の顔をじっと見た。 「ウェラー卿とどういう|縁《えん》かは知ったことじゃないが、たかだか|一介《いっかい》の奴隷|風情《ふぜい》が、うちの陛下に礼を|尽《つ》くさないのは許し難いね」 「ヨザック! この人は助けてくれたんだぞ。そういう言い方はよせよっ」 |慌《あわ》てて|窓《たしな》めるおれに、お庭番は面白くなさそうな様子で言い訳をする。 「だってそうでしょう|坊《ぼっ》ちゃん。いくら|逃《に》がしてくれたといったって、相手は|肥車《こえぐるま》牽《ひ》いてた婆さんですよ。跪《ひざま》いて足をお|舐《な》めとまでは言わないけど、指差し確認なんて陛下に対して|遠慮《えんりょ》がなさ過ぎじゃなぁい?」  ちょっとグリ|江《え》が入っている。  逆にヘイゼル・グレイブスは、面白がるような|笑《え》みを浮かべ、言葉の通じるコンラッドに言った。どうやら|怒《おこ》っているのはニュアンスで伝わったらしい。 「ご立腹だね」 「彼は|憤慨《ふんがい》しているんです。自分の|主《あるじ》を|侮辱《ぶじょく》されたとね。陛下御自身は身分などに|拘《こだわ》らない開けた|御方《おかた》だが、王を持つ臣の心はまた別にある」  背中がむず|痒《がゆ》くなるような説明をされて、おれは居心地悪く視線を|彷徨《さまよ》わせた。|朽《く》ちかけた板がぶつかる|壁《かべ》と|天井《てんじょう》の境目を|眺《なが》めていると、ヘイゼルが今までとは明らかに異なる口調で言った。 「では本当に坊やは|魔王《まおう》陛下で、服はバラバラでもあんたたちは|眞魔国《しんまこく》の外交使節団なんだね。おっと、もう坊やなんて呼ぶわけにはいかない」  彼女はいきなり|片膝《かたひざ》をつき、|騎士《きし》がするようにおれの右手を|捧《ささ》げ持った。 「陛下」 「うわ、ちょ、ちょっと」  |恭《うやうや》しく|頭《こうべ》を垂れられて、動転したおれもしゃがみ込む。二人して|乙女《おとめ》の|祈《いの》りみたいな格好になってしまった。 「数々のご無礼をお|詫《わ》びいたします」 「だからー、困るんだって。そういうの苦手なんだって! 陛下でも大魔王でも無印のユーリでも好きに呼んでくれて構わないけど、腫《は》れ物に触《さわ》るような扱《あつか》いだけは勘弁《かんべん》して欲しいんですって」  ヘイゼルは口元を軽く引き上げ、老婦人とは思えない不敵な笑みを作った。右手を|握手《あくしゅ》の形に持ち|替《か》えて、強く|握《にぎ》った。 「|宜《よろ》しく、陛下。墓所にはいくつも|忍《しの》び込んだけど、現役の王様に会うのは初めてだ」 「墓所に……ヘイゼルサンは|墓泥棒《はかどろぼう》なんですか」 「そうだったら子孫に財産のひとつでも|遺《のこ》してやれたのに!」  |如何《いか》にも残念そうに舌打ちをしてから、|戯《ふざ》けた|仕種《しぐさ》で口を押さえた。それからゆっくりと立ち上がり、おにーさんたちの名前は? と|訊《き》いた。 「|成程《なるほど》、ウェラー卿とグリエ氏。|嬉《うれ》しいね、|苗字《みょうじ》のある男性と知り合うのは久し|振《ぶ》りだ。会談中に何やらひと|悶着《もんちゃく》あったらしいね。自ら立ち上がりはしなくとも、協力者は意外な所にもいるから。あんたたちはイェルシー……|皇帝《こうてい》に|填《は》められた、そう|解釈《かいしゃく》して構わないのかな」 「|違《ちが》う」  自分の発した「|NO《違う》」という単語が、予想以上にはっきり響いて驚いた。おれは首を横に振り、玉座に収まる若き聖砂国皇帝イェルシーと、その|隣《となり》に寄り|添《そ》う|双子《ふたご》の兄を思い|描《えが》いた。ほんの数時間前の出来事なのに、思い出そうとすると頭が強く|痺《しび》れる。 「イェルシーに墳められたわけじゃない。おれは……おれたちはサラに……イェルシーの兄のサラレギーに|騙《だま》されたんだ。まさか兄弟だなんて思いもしなかった」  あれだけ親しげだったサラレギーの態度が、最初から|全《すべ》て|嘘《うそ》だったなんて思いもしなかったのだ。 「神族は双子が多いんだ。気付くまであたしも半年はかかった。さっき会った男がどうしてまたこっちにいるんだろう、ひょっとして|恐《おそ》ろしく足が速いんだろうかってな具合にね。それにしても小シマロンの王が、ここの皇帝と双子だなんて、誰一人想像しなかったろうね!」  ヘイゼルは同情を見せて|頷《うなず》き、質問を続けた。 「しかし|何故《なぜ》あんたたち魔王陛下御一行様が、こんな少人数で聖砂国まで|渡《わた》ってくることになったんだい? あたしの|勘《かん》違いだろうか。出島でも|宮殿《きゅうでん》でも|殆《ほとん》どが小シマロンの人間で、上陸した魔族は二人か三人だけと聞いたんだが」 「それを話す前に、そちらの|素性《すじょう》も明らかにしてもらわないと」  ウェラー卿が会話に割り込む。彼の言うとおりだ。冷静な人がいてくれて助かった。 「ヘイゼル・グレイブスに対する疑問は尽きない。けれどあなたが別の名も持つというのなら、我々はベネラに対しても尋ねることが山程ある」 「そうだ、ベネラだ、ベネラさんだよ! 奥さんが……うーん、マダームがベネラさんなら、おれたちが|捜《さが》してたのはあなただということになる。教えてくれ、ジェイソンとフレディって女の子を知らないかな。何処にいるだろう、手紙を受け取ったんだ」  幼いうちに|離《はな》れた|懐《なつ》かしい故郷へ、望んで|還《かえ》ったはずだった。姉妹二人聖砂国で、幸せに暮らすはずだった。なのにおれの手に届いた手紙からは、幸福など一行も読みとれなかった。必要のない謝罪の後に、読みとれたのはこれだけだ。  ベネラ、希望、助ける。 「なあ教えてくれ、おれは一体あんたを何から助けたらいいんだ? あの子達はどんな目に|遭《あ》ってるんだ!? なあヘイゼルさん、あんたがベネラだっていうんなら……」  おれがヘイゼルの|腕《うで》を|掴《つか》むのとほぼ同時に、遠くで数頭の犬が|吼《ほ》えた。追っ手に|嗅《か》ぎつけられたのだろうか。 「長くなりそうかい?」  返事を待たずに|踵《きびす》を返し、小屋の奥へと続く|扉《とびら》に手を|掛《か》けた。 「なら、場所を移そう」  取っ手を掴むと木の|屑《くず》がボロボロと落ちる。今にも分解しそうなそれを|強引《ごういん》に引き開けると、その先には一メートル四方の小部屋があった。  ……小部屋というかウォークインできないクローゼットというか、|床板《ゆかいた》の中央に四角く切られた穴を見る限りでは……。 「トイレ?」  ヘイゼルは床板を数枚外している。 「し、しかも汲み取り式……」  |通称《つうしょう》・ボットン便所。祖父の|田舎《いなか》でしか見たことがない。当然もう現役ではなかった。 「|大丈夫《だいじょうぶ》だ、気に|病《や》むことはないよ。トイレとしては使われてないから。さあ!」  片手に板を|抱《かか》えたままで手招きをする。コンラッドが先に|潜《もぐ》り、ヨザックがおれの|肘《ひじ》を押した。犬の声が急速に近付いてきたからだ。  穴の下には細い|梯子《はしご》が|繋《つな》がっていたが、入口同様に|狭《せま》い空間だった。|肩幅《かたはば》の広い大人なら、|両脇《りょうわき》の壁で二の腕を|擦《こす》ってしまうだろう。 「トイレからの移動にはあまりいい思い出がないんだよなぁ……ねえここ本当にトイレとしては使われてないんですよね」内側から床板を|戻《もど》していたヘイゼルが、|振《ふ》り返りもせずに答える。 「ごく|稀《まれ》に迷い込んできた番兵が、本物と|間違《まちが》えて用を足すことがあるだけだよ」  肩幅の広いお庭番に、通訳してやるべきか迷った。      2  夜の日本観光with|錦鯉《にしきごい》。  二十人用のパーティールームを借り切り、ソファーの中央で|渋谷《しぶや》勝利《しょうり》はふんぞり返っていた。自らに課された務めを多少なりとも果たしたので、連れに対して|威張《いば》っているのだ。  ファーストクラス専用ラウンジで運悪く出会ってしまったアビゲイル・グレイブスを、日本人お得意の|技《わざ》で接待しておいてくれとボブに|頼《たの》まれたのは、ほんの数時間前だった。そんなことしてられっかと|突《つ》っぱねて、アビゲイルを一人でチェックインさせようとしたのだが、本人に全くその気がなかったらしい。ホテルのフロントまで連れて行っても、ニコニコとこちらを|窺《うかが》うばかりだ。|朱《しゅ》に近い赤に金糸で魚の|刺繍《ししゅう》という、今どき|夫婦《めおと》漫才師《まんざいし》でも着ないような着物姿のチアリーダーを連れて、勝利はやむなく夜の街を|彷徨《さまよ》った。  しかしその時にはまさか、彼女が|漫喫《まんきつ》に行きたがるとは思いも寄らなかったのだ。二十四時間営業の看板を見つけると、アビゲイルは|嬉々《きき》として勝利の腕を引いた。  深夜の漫画喫茶with錦鯉。  そこでさんざん日本の漫画を読み|倒《たお》してからこれまた終夜営業のカラオケボックスに移動し、やっと通じた|携帯《けいたい》で、ご利用カーニバルの打上げ中だったボブを|捉《つか》まえ、「錦鯉を放流するぞ」と半ば|脅《おど》すようにして呼び出した。漫画喫茶からカラオケボックス……はとバスのツアーには組み込まれていないが、ある意味非常に日本的な観光コースだ。  そして現在、アビーことアビゲイル・グレイブスは、新たに加わった|謎《なぞ》の男、ホセ・ロドリゲスと順番を取り合うようにして、バーコードリーダー片手に曲名を探している。  渋谷勝利は鼻息|荒《あら》く、|斜《なな》め前に座る二人組に言った。 「俺はしたぞ。俺はちゃんとこのアメリカン・ゲイシャガールをお持て成ししたからな」  ボブはウーロンハイのグラスを|傾《かたむ》け、|村田《むらた》健《けん》はカレーのスプーンを持つ手を止めた。そののんびりした様子に腹が立つ。弟が|行方《ゆくえ》不明だってのに、|呑気《のんき》にカレーなんぞ食ってる場合か。  ボブと村田が羽田から連れて来た男というのも、のんびりを絵に描いたような人物だった。アニメーション|満載《まんさい》の画面を見ながら、何故かアニメじゃない! と歌っている。小指どころか親指まで立ってるし。 「で? 誰《だれ》だ、あの役に立ちそうにない男は」  それどころかトラブルメーカーになりそうだ。  ドクター・ホセ・ロドリゲスと呼ばれた男は、人差し指の長さだけ|伸《の》びすぎた|黒髪《くろかみ》を、後ろで|緩《ゆる》く|縛《しば》っていた。だがそれもあまり効果がないらしく、|頬《ほお》や額に後れ毛の束が掛かっている。|眼鏡《めがね》の奥の細い目は|皺《しわ》に囲まれていて、いつでも笑っているみたいだ。病的なまでに|痩《や》せてはいるが、だからといって不健康なわけでもない。ただ単に日本人の勝利から見ると|胡散《うさん》臭《くさ》いというだけだ。  |遅《おく》れまくった国内便から、|怪《あや》しいゴーグルをかけて降り立った彼の第一声は「やあ|皆《みな》さん、どうかなー。クワトロ・バジーナモデルだよ」だというのだ。  |極端《きょくたん》な大きさのサングラスや、ダースベイダーのヘルメット、レーガン元大統領のゴムマスク等、|紛《まぎ》らわしい|恰好《かっこう》をすれば|即座《そくざ》に事情|聴取《ちょうしゅ》! というのが昨今の空港事情だ。ロドリゲスも|危《あや》うく別室に招待されるところを、ボブの|凄味《すごみ》でどうやら切り|抜《ぬ》けたらしい。  それを聞いた|途端《とたん》、勝利は思った。何のドクターだ、アニメ|博士《ドクター》か? アニメ店長の|親戚《しんせき》か!? 「あー、ロドリゲスは私の知人で医者なんだが……」 「ほーお、|成程《なるほど》ぉ。四回連続TWO—MIX歌ってる男がね」  少なくともアビゲイルとは気が合うようだ。初対面とは思えぬ意気投合ぶりで、日本のカラオケ文化を|堪能《たんのう》している。すっかりアビー&ロディー状態。 「ピリピリするのも|判《わか》るけどね」  スプーンを置いた村田健が、|溜息《ためいき》混じりに言った。|曇《くも》った眼鏡のせいで表情が読めない。 「夜の間は無理なんだよ、友達のお兄さん。一刻も早く渋谷を追い掛けたいって気持ちは僕だって同じだ。けどこちらが夜じゃあ掴めるものも掴めない。ただでさえ難しい移動なんだ、|万全《ばんぜん》の条件でチャレンジして、少しでも成功の可能性を高めたいんだよ」 「夜間飛行は無理ね。ふーん。それでムラタケン、具体的なやり方はどうなってんだ」 「具体的な方法?」 「そうだ。昨日は|薄汚《うすぎたな》い水に潜ってるだけにしか見えなかったが、あの男が加わったせいでちょっとは変化するんだろ。|魔法陣《まほうじん》の角が一個増えたり、|呪文《じゅもん》の種類が多くなったり」  弟の友人は|眉《まゆ》を|顰《ひそ》め、|駄目《だめ》だこりゃという|仕種《しぐさ》で額を押さえた。 「魔法陣も呪文も使わないよ。行く方法は時と場合によって|違《ちが》う。簡潔に説明できるもんじゃない。大体ね、そんなこと訊いてどうするっていうんだ。誰でも行けるわけじゃないってのはボブから聞いただろ」 「そんじょそこらの力じゃ行けないって話だろ?」  メニューを見ていたボブが顔を上げた。人差し指は「きのこ倍増計画スパゲティ」で止まっている。 「何を考えている、ジュニア?」 「何も」  |天井《てんじょう》にぶら下がったミラーボールが、レンズの角に反射して|懲陶《うっとう》しい。真夜中の、しかも室内なのにサングラスを外さないボブは、ある意味正しいのかもしれない。 「あんたたちはあんたたちで計画どおりに進めればいい。その代わり俺も勝手にやらせてもらう。理論と方法だけ教えてくれりゃいいんだ。|超巨大《ちょうきょだい》なエネルギーってのもこっちで用意する。別に大したことでもないだろ」  彼はメニューを閉じ、指先で|眉間《みけん》を軽く|揉《も》んだ。口元の皺が深く刻まれている。 「……きみには無理だと言っただろう、ジュニア」 「紛らわしい呼び方をすんなよ。あんたの|息子《むすこ》じゃあるまいし」 「それできみの用意した巨大な力というのは何だ?」  ロドリゲスが|全音符《ぜんおんぷ》を歌い上げ、部屋中が電波状の高音に満ちた。勝利はソファーに背を預ける。 「そこは|企業《きぎょう》秘密……」 「ボーデン湖なのよー」  医者からマイクを|奪《うば》ったアビゲイルが、スツールの上に立ち、振り|袖《そで》をひらつかせて歌う。 「ボーデンボーデンボーデンなのよー」 「あっテメ、言うんじゃねえグレイブス!」  |突然《とつぜん》テーブルが強く|叩《たた》かれ、|震動《しんどう》で陶器が|嫌《いや》な音を立てた。カレーの皿の上でスプーンが回っている。何だよ弟のオトモダチ、勝利はそう|訊《き》きかけて言葉を止めた。 「|冗談《じょうだん》じゃない」  ピンクやらブルーやらの光が反射する中でも、村田の顔色が変わったのは見て取れた。先程までとは別人のように冷たい声だ。もしもこの場に有利がいたら、こんな危ないキレ方をする|奴《やつ》と付き合うのはやめるように言っていただろう。 「ボーデン湖だって? ドイツの? 待ちなよ、冗談じゃないよ」 「ドイツじゃねえよ。スイスの……」 「どっちだって同じだ!」 「ムラタ」  ボブが|肩《かた》を|掴《つか》んで座らせようとするが、彼にしては|珍《めずら》しく年相応の|激昂《げっこう》を見せ、年長の相手を|糾弾《きゅうだん》するのをやめなかった。 「冗談じゃない、あんなもの絶対に使わせるもんか! あれのエネルギーを利用するくらいなら、ナイアガラでも逆流させたほうがずっとマシだ! そんな方法しか思いつかないっていうんなら、あんたが何と言おうと向こうには行かせないからなっ」 「お前に決められる筋合いはねーんだよ、弟のお友達。大体なんだ、アレとかアンナモノとか。湖の底に何が|沈《しず》んでるっていうんだよ、ええ?」  歌が止まった。アビー&ロディーもスタートボタンを押さないまま|固唾《かたず》を|呑《の》んでいる。 「ああ、くそっ」  村田は眼鏡を外し、乱暴に髪を|掻《か》き回した。らしくない、まったく彼らしくなかった。 「|厄介《やっかい》だなっ、説明したって人間の理解の|範疇《はんちゅう》を|超《こ》えてるしなっ! とにかく僕等がボーデン湖に沈めた物は……違う、僕じゃない」 「健ちゃん?」  |奇妙《きみょう》に|優《やさ》しげな|声音《こわね》で、ロドリゲスが名前を呼んだ。返事の代わりに右手を挙げてから、村田は深く息を吸う。 「とにかく、あそこにある物は危険だ。|迂闊《うかつ》に使わせるわけにはいかない。渋谷を助けに行くどころか」  余った分を長く|吐《は》き出す。|脈拍《みゃくはく》を平常に|戻《もど》そうと努力しているようだった。 「……逆に追い|詰《つ》めることになる」  勝利はソファーに|腰《こし》を落ち着けたまま、いきりたつ高校生を|眺《なが》めていた。組んだ|腕《うで》をゆっくりと|解《ほど》き、人差し指でフレームの中央を押し上げる。 「ゆーちゃんを追い詰めるだって? |一介《いっかい》のコーコーセーのお前に、何でそんなことが言えるってんだ」  村田の血圧が一気に|跳《は》ね上がった。 「|解《わか》らない男だな!」 「結構。わからず屋で結構。俺は行く、危険だろうが一人だろうがスイスに行くぜ。まあボブ、あんたのプラチナカードからー、|幾許《いくばく》か投資したいっていうのならー、もちろん資金|援助《えんじょ》絶賛受付中だけどな」  ご大層な|啖呵《たんか》を切っておいて、|今更《いまさら》お|小遣《こづか》いちょうだいもないもんだ。だが背に腹はかえられない。勝利のカードと手持ちだけでは、往復航空券と|宿泊費《しゅくはくひ》がやっとだ。  急に話を|振《ふ》られたボブが、|怪認《けげん》そうに同じ単語を|繰《く》り返した。 「プラチナ?」  もしかして金でも銀でもなく黒いのだろうか。勝利は|噂《うわさ》に聞くブラックカードを想像しかけた。だが世界経済の|魔王《まおう》と|称《しょう》される男は、ドアの外に運転手が居るのを|確認《かくにん》しながら言った。 「私のカードは金属ではなくプラスティック製だよ。それに、あまりカードで買い物はしないんだ。クレジット会社ばかりを|儲《もう》けさせてやることもないだろう?」  ボブが耳の横で指を鳴らすと、運転手は即座に部屋に入ってきた。防音されているはずなのに、あんな小さな音を一体どうやって聞き分けたのだろう。ひょっとして彼の指パッチンには、犬笛みたいな|特殊《とくしゅ》効果があるのかもしれない。 「……ちょっと待て、ボブ、あんた運転手替えたよな」  彼が日本で使っていたドライバーは、温厚そうな初老の|紳士《しんし》だったはずだ。灰色の|帽子《ぼうし》を|被《かぶ》り、制服をきちんと着た中肉中背の男だった。いつでも白い|手袋《てぶくろ》をしていて、車は|完璧《かんぺき》に|磨《みが》き上げている。確かに引退してもおかしくない|歳《とし》だったが、新しい人事はあまりにも|斬新《ざんしん》すぎる。  主人の|隣《となり》に立った新任のドライバーは、ハンドルよりも別の何かが似合いそうな人物だった。 |褐色《きつしょく》の|肌《はだ》にぱっつんぱっつんの黒レザーパンツ、腰には意味もなく|鎖《くさり》がぶら下がっている。短く|刈《か》り上げた髪は赤と黄色に染められ、耳どころか|唇《くちびる》にまでピアスをしている。見ているだけで痛そう。身長も胸板も|驚異《きょうい》的という|程《ほど》ではないが、首から肩にかけての筋肉は立派に盛り上がっていた。日本人ではありえない体形だ。  |綺麗《きれい》な|珈瑳《コーヒー》色の中で、眼球と歯の白さが|際《きわだ》立っていた。 「最近は何かと|物騒《ぶっそう》だからな、ボディガードを|兼《か》ねてとある組織から引き|抜《ぬ》いたんだ」  実は誰《だれ》よりも物騒な地球の魔王は、男の手にした黒革の|手鞄《てかばん》を開かせながら言った。 「カリブの生まれで、名前はフランソワ」 「……フラン……ソワ……」 「……ボンジュール……」  男は見た目を裏切らない|渋《しぶ》い声で|挨拶《あいさつ》をした。フランス語だ。 「え、ポ・ポ・ポ、ポンジュース?」  都知事候補はフランス語が苦手だった。 「ドライビングテクニックもなかなかだぞ。|長距離《ちょうきょり》ドライブの際には言ってくれ、いつでも|派遣《はけん》する。大学生はゼミの合宿とかあるのだろう? ああフランソワ、五百くらい|渡《わた》してくれ」  バッグの中身を|垣間《かいま》見て一同が顔色を変える。 「ああ心配ない。こう見えて彼は公認会計士なんだよ。フランソワに持たせておけば安心だ。|闘《たたか》う会計士といったところかな」  ボブはすかさず|注釈《ちゅうしゃく》を入れた。こうなると運転手というより、お財布番だ。  |剥《む》き出しの百ドル|紙幣《しへい》を何束も渡されて、勝利は思わず取り落とした。|煙草《たばこ》の|焦《こ》げ|痕《あと》の残る|床《ゆか》に、真新しい札束が転がる。 「お、おいおいおいおい、おーいボブ!? 五百って、五百ドルじゃなくて五百枚ってことー!?」  日本円にして六百万余りだ。  魔王の経済観念はどうなってるんだと、|庶民《しょみん》三人は|呆《あき》れ返った。第一そんなに現金を|握《にぎ》って|渡欧《とおう》したら、入国|審査《しんさ》で引っ|掛《か》かってしまうのではなかろうか。しかしボブは当たり前といった顔で、新任の運転手に金をまとめさせた。 「なーに、これは当座の資金だ。きみの望みを|叶《かな》えるためには、これではとても足りないだろうしな。私の現地スタッフを派遣しよう。必要なら何でも言うといい」 「ボブ……!」  |抑《おさ》えた声で|眩《つぶや》いたのは、大金を前に|困惑《こんわく》顔の勝利ではなく、フレームの細い|眼鏡《めがね》を外したままの村田だった。 「反対だと思ってたのに」  口元が不自然に引き|攣《つ》っている。  なるべく感情を殺すようにしながら、村田は注意深く話し続けた。前の前の|記憶《きおく》では自分に同調してくれたはずなのに。今になって|何故《なぜ》、|愚《おろ》かな|行為《こうい》に手を貸すのか。 「僕等がどれだけ苦労したか知っているはずだろう。だからこそあれを引き|揚《あ》げるのには反対してくれると思っていたのに」 「健ちゃん」  ロドリゲスが笑い|皺《じわ》に|縁取《ふちど》られた目を細めた。 「……僕等[#「僕等」に傍点]じゃないだろ?」 「そうだった、いやもうそんなことどうでもいい!」  掴んだ眼鏡を投げ捨てそうな勢いで、村田は|右腕《みぎうで》を振った。ここには無い何かを指し示すみたいに。 「あれの|恐《おそ》ろしさは知っているはずだ。推測だが、例の火災の件もある。この上最後の一つまであちらに戻るようなことになったら……。彼が移動するためだけに、そんなリスクは|冒《おか》せない。なにより、渋谷のためにもならない」  しかし男は軽く|眉《まゆ》を上げ、子供の|悪戯《いたずら》を発見した親のように、肩を|疎《すく》めただけだった。 「私に詰め寄られても困る。|一旦《いったん》決めたことならば、他人に何を言われようとも実行するだろう。ショーリはそういう男だ。彼示本気なら私が反対する理由はなかろう」 「なんだって!? 反対する理由はない!? あの箱の|脅威《きょうい》を考えたら、それだけで|充分《じゅうぶん》な理由になるじゃないか。しっかりしてくれボブ、その手段は禁じるって一言命令すれば済む話だ。彼はあんたの|後継者《こうけいしゃ》なんだろう?」 「そのとおり、ショーリは私の後継者だ。だからこそきみに指示される謂われはない」  彼はゆっくりと|脚《あし》を組み|換《か》え、ソファーの|肘掛《ひじか》けに腕を置いた。その指先で|顎《あご》を支える。ボブと呼ばれる男は親密そうに|頬《ほお》を|緩《ゆる》めながらも、|一欠片《ひとかけら》も笑いを|含《ふく》まない声で言った。 「忘れてもらっては困る、ここは私の世界だ。私のものだ。後継者が何を望み何をしようとも、それを私が許容するならば、きみに口出しされる筋合いはない」 「……っ」 「私のものなんだよ、ムラタ」  血液が一気に頭に流れ込み、慣れない感情で|身体《からだ》が熱くなった。村田は|歯噛《はが》みし、自分の無力さを痛感した。どんなに過去の記憶を|維持《いじ》していようとも、結局自分はまだ未熟な学生で、この脳と身体は十六年の経験しか積んでいないのだ。  |生温《なまぬる》い時代に身を置き過ぎたかな。  彼は誰にともなく咳いた。いや、相手が誰なのかは判っている。  有利、僕は生温い時代に身を置き過ぎたかもしれない。  |阻害《そがい》と|孤独《こどく》と|恐怖《きょうふ》の少ない|環境《かんきょう》で十六年も生きてきたせいで、頭の中身まですっかり平和になってしまったのかもしれない。例えばこれが村田健ではなくアンリ・レジャンだったら……|或《ある》いはナタン・マルガン、それともとても長く生きたランペドゥーサだったら、もっと|聡《さと》く|好計《かんけい》に気付けただろうか。  村田は|絞《しぼ》り出すような声で言った。手の中で細い金属が|軋《きし》み、ギチリと|嫌《いや》な音を立てる。 「……押しつけるつもりか」  ボブはただ|爪先《つまさき》を|揺《ゆ》らしただけだったが、それが|終了《しゅうりょう》の合図になった。  残る全員が|呪縛《じゅばく》を解かれたように息をつき、勝利はやっとフランソワの差しだす|袋《ふくろ》を受け取った。ドアに向かって数歩進んでから、弟の友人に|人差《ひとさ》し|指《のび》を向ける。 |撃《う》つように。 「残念だったな、村田健」  相手からは負け|惜《お》しみめいた言葉しか返ってこない。 「……あんたが行って、何になる」 「じゃあ|訊《き》くぜ。お前が行ってどうなるってんだ?」  勝利は情け|容赦《ようしゃ》のない一言を|叩《たた》き付けた。同情など必要あるまい。 「グレイブス!」 「イェァ」  なんだかやけにアメリカ人っぽい返事に眉を|聾《ひそ》めた。時と場所を|弁《わきま》えて、美しい発音を|心掛《こころが》けて欲しいものだ。 「家族を|紹介《しょうかい》しろ」 「オー! お付き合いの第一歩デスネー。ニポーンジン|礼儀《れいぎ》正しーい」  派手な振り|袖《そで》姿の少女は、|弾《はず》んだ|似非《えせ》日本人口調で答えた。天に向かって|拳《こぶし》を上げ、|絡《から》む|裾《すそ》を物ともせずに飛び|跳《は》ねる。さすがチアリーダーだ、ジャンプの基本ができている。 「|勘違《かんちが》いすんな。両親じゃねーぞ。トレジャーハンターだったっていう|曾《ひい》グランマの話だからな」 「オーウこれまた、ショーン・オブ・デッドまずは馬をイエーイ! ですねー」 「元の格言の|欠片《かけら》も残ってねえ」  重い|扉《とびら》を閉めると同時に、テーブルに叩きつけられた|硝子《ガラス》の|砕《くだ》ける|軽《かろ》やかな音がした。      3  おれの|脳《のう》味噌《みそ》にこんな便利機能が付いているのなら、もっと早く教えてくれれば良かったのに。そうすれば少なくともオーラルの授業だけは、英語教師の顔色を|窺《うかが》うことなく堂々と受けられたのに。 「|驚《おどろ》いたな、おれって英語ペラペラだったんだ」  時々聞き返されることはあったが、ヘイゼルとの会話に支障はなかった。正直、あのカタカナ混じりの中学イングリッシュが、実際に役立つ日が来ようとは思ってもみなかった。義務教育って意外と大事。  しかし問題は、英語を話しているのに気付いた直後から、失われていた記憶が次々と|甦《よみがえ》ってしまった点だ。例えば地下鉄の駅名らしき数字、グリ江ちゃんではない|怪《あや》しい女装のオネエさん、人魚、|喋《しゃべ》るお|神筏《みくじ》ボックス、|何処《どこ》のチェーン店か|判《わか》らないコンビニの制服、アヒル。 「どっか海外の通りの名前とか……なんだこりゃ。兄貴に連れ回されたんだろうか。あ、そんな気がしてきた……あーでも思いだしちゃいけない過去のような……」 「いけない過去?」  大人一人がやっと進める|幅《はば》の通路で、ヨザックが|窮屈《きゅうくつ》そうに|振《ふ》り返った。オレンジ色の頭が|天井《てんじょう》にぶつかりそうだ。それ以前に手にした|松明《たいまつ》が、同じ色の|髪《かみ》を|焦《こ》がしそうだ。 「|誰《だれ》にだって消したい過去はあるものよ、|坊《ぼっ》ちゃん。無理にはっきりさせなくても」 「止められるもんなら止めてますってェ」  でもまるでテーブルクロスにグラスを|倒《たお》したように、|徐々《じょじょ》に広がり|染《し》み|渡《わた》って行くのだ。これまでは単なる|塵《ちり》だった物が、水を吸い込み一つ一つ|膨《ふく》らんで、段々と明確な画像になる。 「うひゃーどうしようあのエプロンドレスみたいなのは何だろう、ていうかまさかアレ……」  歩きながら額を押さえるおれを見て、保護者達は少々心配になってきたようだ。  コンラッドは彼らしくない不安そうな声で、おれの額に背後から手を重ねた。 「|大丈夫《だいじょうぶ》ですか。どこか痛むようなら、彼女に言って少し休みますか?」 「|違《ちが》う違う、痛いっつーより|恥《は》ずかし、あイター! され放題じゃん、ちょっとは|拒否《きょひ》しろよ子供の|頃《ころ》のおれ!」  ヘイゼルは時折曲がる地下通路のずっと先を歩いている。|灯《あか》りと小さな背中しか見えない。 「アーダルベルトのせいかもしれません」 「マッチョが何、どうしたって?」 「こちらの言語を無理やり引き出した時に、|記憶《きおく》の|箍《たが》が緩んだのかもしれない」 「|箍《たが》が緩むって……年取って|涙《なみだ》もろくなるような感じかな」 「いえ、そうではなく、本来なら歯止めが|掛《か》かっているはずの過去まで、甦ってしまう状態です」 「歯止め?」  見上げる要領で首を後ろに反らすと、|殊《こと》の外深刻そうな顔に出会う。|虹彩《こうさい》に散った銀の星が、|炎《ほのお》に照らされて|煌《きら》めいていた。こんな|距離《きょり》で目にするのは久し振りだ。 「つまりあなたが話していたのは、学校で習った英語だけではなく、幼少時に自然と耳にしていた言葉なのではないかと……」 「ああ、おれってなんちゃって帰国子女だから! といってもほんの数ヵ月間、しかも生まれてすぐの赤ん|坊《ぼう》だったんですけど」 「聞いてます」  そうしている間にも、身に覚えのない体験は次々と甦ってきていた。ショットガンらしき物、|巨乳《きょにゅう》に顔を|埋《うず》め……うわストップ、巨乳、だからストップ巻き戻しって! |慌《あわ》てて振り回した右腕は、乾いた土の|壁《かべ》にぶつかった。小指の石が黄色い粉を|削《けず》り取る。 「気をつけて」 「大丈夫だ。それより歯止めって何だよ、記憶の箍って」  コンラッドはヨザックにも聞こえるように、やや声を高くして続けた。 「俺も専門的に学んだわけではありませんが、多くの人の記憶というのは、二、三歳頃から始まっているものでしょう。それ以前の、生まれて間もない時のことや、|胎内《たいない》の状態などは|殆《ほとん》どの場合覚えていない」 「まあそうだね」 「けれど以前にも申し上げたとおり、|魂《たましい》は|全《すべ》て記録しているんです」  記憶と記録。難しい話になってきた。 「あなたが|訪《おとず》れたこともなかった眞魔国の言語を理解できたのは、それが記録され、魂の|襞《ひだ》に|蓄積《ちくせき》されていたからです。もちろん陛下……ユーリとしてお生まれになる前の経験ですが」  石でも|詰《つ》まったような気がして、おれは無理やり|喉《のど》を動かした。口の中は|渇《かわ》いていて、|呑《の》み込む|唾《つば》さえなかったが。 「……つまり、前の持ち主の経験値を借りて喋ってるってことだ」  表面上は何の変化も見せずに、コンラッドはゆっくりと|頷《うなず》いた。 「そうなります。本来なら表層には|浮《う》かんでこないはずの記録です。決して開かない扉の奥深くに、閉じ|込《こ》めておくべきものです。新しい所有者の人格形成に、|影響《えいきょう》があってはいけませんから」 「影響……まあ、そうかな」  新しい所有者というのは、おれだ。  前の持ち主が誰だったのかは、おれの知ったことではない。 「そんなの知ったこっちゃないですけどねぇ」  心の中の言葉を読まれたのかと、思わず足が止まってしまった。けれどそれはおれの口から発せられたのではなく、ヘイゼルを見失わないように前を向いたままのヨザックが、平素と変わらぬ口調で言ったのだ。 「生まれちまったほうにしてみれば、前世がどうだったかなんて、正直知ったこっちゃありませんやね。今あるものを使って生きていくだけで必死、死ぬまでに使い切るだけで|精一杯《せいいっぱい》さ」 「グリ江ちゃんはいいこと言うなあ! おれが金田一博士だったら、グリ江ちゃん語録を|編纂《へんさん》してるよ」 「|嬉《うれ》しい、陛下。グリ江感激!」  前世のことを考え始めたら人間お|終《しま》いだ。  おれだってそれらしき人物の名を告げられたことはあるが、自分のこの眼で確かめようもない過去なんて、そう簡単に信じられるわけがない。同じ魂を使っていた人が|大富豪《だいふごう》であろうとも、現在のおれはしがない|庶民《しょみん》の|次男坊《じなんぼう》で、高校生|兼任《けんにん》の新前|魔王《まおう》だ。万が一以前も王様だったとしても、精々お|菓子《かし》のホームラン王くらいの規模だろう。世界が|狭《せま》い。  ましてや知り合いの女性でしたなんて言われたら、どう反応していいか見当もつかない。次に会ったときどんな|挨拶《あいさつ》をすればいいんだ。部長そのネクタイ|素敵《すてき》、とか? 部長じゃないしネクタイしてないし。  胸に戻った魔石が熱を増すようだが、敢《あ》えて気付かぬふりをする。やっぱり、知らない顔をして生きていくのが一番だ。  そう結論づけたおれを裏切るように、ヨザックが|呑気《のんき》な口を開いた。 「けど、周囲の者は困るでしょうねえ」  照らし|損《そこ》ねた足元の小石に|蹟《つまず》く。 「昨日まで友人だった相手が実は敵だと判ったり、|可愛《かわい》い|息子《むすこ》が親の|仇《かたき》の生まれ変わりだと知ったりしたら、そりゃあ困る、|困惑《こんわく》しますよ」 「……だから|封印《ふういん》されるんだ」  額に|載《の》っていたコンラッドの|掌《てのひら》が、不意に冷たくなった気がする。 「周囲にも本人にも|悟《さと》られないように、魂の奥底に、厳重に|鍵《かぎ》を掛けて封印するんだ。だがアーダルベルトはそれを破り、陛下のものではない記憶を引き出した。言語だけならと、そう危急にとりもしなかったが、あの時に笹が|緩《ゆる》んだとなると……」 「待ってくれ、待ってくれよ」  彼の手を振り|解《ほど》き、おれは|靴《くつ》の|踵《かかと》を|軋《きし》ませて向きを変えた。 「赤ん坊の頃に見聞きした光景を思い出しただけだよ。三歳児くらいとかな。そんなのご近所でちょっと評判のエリート|幼稚園児《ようちえんじ》なら、単なる|食卓《しょくたく》の話題になる話だろ? ぼくママのお|腹《なか》の中に居た頃のことも覚えてるよーってさ。それを何だよコンラッド、|大袈裟《おおげさ》だよ大袈裟。考え過ぎ、心配し過ぎなんだって」 「そうでしょうか」 「そうだ」  指輪の無い方で|拳《こぶし》を作り、制服の胸を軽く|突《つ》いた。とん、と小さな|衝撃《しょうげき》が返ってくる。彼の|鼓動《こどう》を|掴《つか》んだ気がした。 「心配するのはギュンターの仕事だろ」 「でも、したいんです……させてください」  |恐《おそ》らく炎の|揺《ゆ》らめきのせいだろう。泣きそうな|眼《め》をしていた。おれではなく、彼が。 「今だけでも」  その|瞬間《しゅんかん》おれの中には、十六にもなった|野郎《やろう》に言う|台詞《せりふ》じゃないだろうとか、城の連中にも|囁《ささや》かれてるけど、あんたとギュンターは過保護すぎるとか、|幾《いく》らでも言い返す言葉があった。けれど結局は何一つ口答えできずに、ただ在り来たりの短い返事を繰《く》り返しただけだった。 「|大丈夫《だいじょうぶ》だ」  もう一度、大丈夫だよと。  だから陽気なお庭番の入れてくれた茶々が、これほど有り難かったことはない。何事も|面白《おもしろ》がるのが習慣であるヨザックは、ファイヤーダンスよろしく顔の横で松明を|振《ふ》り回した。掛ける言葉に迷わなくて済むように。 「危ないだろグリ江ちゃん!?」 「よかったー、グリ江のことも心配してくれて」 「いやどっちかっていうと|灯《あか》りの心配を……」  呼ばれたような気がして|肩越《かたご》しに先方を|見遣《みや》ると、すっかり遠くなってしまったヘイゼル・グレイブスが声を張り上げていた。 「ボーイズ、|脚《あし》がお留守のようだよ!」  コンラッドに向かってボーイズはないだろう、と英語|解《わか》る組は|肩《かた》を|辣《すく》める。見た目と|実年齢《じつねんれい》の差を知ったら、彼女だって相当|驚《おどろ》くだろうな。  ところが実年齢を聞いて|素《す》っ|頓狂《とんきょう》な声を上げてしまったのは、ヘイゼルではなくおれのほうだった。 「そんなに!?」  彼女の言葉を信じるならば、|余裕《よゆう》で百二十歳は過ぎているそうだ。ご婦人に|年齢《ねんれい》を|訊《き》くのは失礼とか、そういうレベルを|超《こ》えている。とはいえ外見は七十そこそこだから、魔族の|歳《とし》の取り方とも異なっていた。  それにしてもコンラッド、ヨザックも加えて、百歳オーバー三人組に囲まれていると、最近の|高齢者《こうれいしゃ》の|皆《みな》さんは元気だよなと実感してしまう。|毒蝮三太夫《どくまむしさんだゆう》になった気分だ。 「ということは神族も、魔族同様ご|長寿《ちょうじゅ》種族なんだね」 「いや、確かに百五十くらいまでは生きるようだが、あんたたちみたいに老化が遅《おそ》いとは聞かないね。百を超えれば|身体《からだ》にガタがくるし、|病《や》んで|寝《ね》たきりになる者も多い」  そう言いつつもベネラことヘイゼルは、大きな|溝《みぞ》をひょいと|跳《と》び|越《こ》えた。身体にガタがくる? 誰《だれ》の話だ。 「|騙《だま》し騙しやってきたけれど、あたしもそろそろ限界が近付いてきたようだしね。もっともあたしはここの世界の者じゃないから、時間が肉体に|及《およ》ぼす影響にも、多少は差があるんだろうけど」 「ちょっと待った、聞き捨てならないな。ここの世界の人じゃない?   それどういうことですか、まさかヘイゼルさんもおれと同じ……」 「その件に関しては、ウェラー氏が|詳《くわ》しいと思うけど」  明かりを受けた顔の半分だけで笑い、|壁《かべ》の数|箇所《かしょ》に手を|這《は》わす。|突起《とっき》か何かを探しているようだ。 「あたしは何十年も前に死んだんだよ。地球の、合衆国……アメリカという所でね」 「アメリカ!?」 「……一九三六年、ボストン|郊外《こうがい》であなたは|行方《ゆくえ》不明になった」  七十年も前だよという驚きが、思わず口をついて出てしまった。老婦人の所作を見守っていたコンラッドが続けた。 「移築した|邸宅《ていたく》の焼失と共に」 「そうだよ、焼け死んだはずなんだ。なのにあたしはこうしてピンピンしている。どうしてなんだろうね。来た当初は此処は死後の世界なのかと思ったよ。けれど天国にしちゃあ過酷な環境《かんきょう》だ。だから生前あまり善行を積んだともいえないせいで、天国の門が開かなかったのだろうとね」 「|違《ちが》う違う、|地獄《じごく》でも|極楽《ごくらく》でもないんだよそれが」  おれだけが|慌《あわ》てて否定する。|冗談《じょうだん》じゃない、グレイブス説が通ってしまえば、自分も死んでいることになる。おれは何度も往復しているし、今のところ日本でも消息不明にはなっていない。 「ああもちろん、此処が死後の世界じゃないことくらい今は知っているよ。けれど故郷ではあたしの|葬儀《そうぎ》も済んだろうし、ささやかながら墓も立ててくれただろう。ヘイゼル・グレイブスはもう死んでいるんだよ。|禁忌《きんき》を破ってあれに|触《ふ》れ、あの青い|炎《ほのお》に包まれた瞬間にね」 「そう、あなたは箱の|蓋《ふた》を開けた。そしてその衝撃でこちらへと飛ばされてきたんだ」 「コンラッド!」  会話を|遮《さえぎ》ると同時に、|鈍《にぶ》い音を立てて壁がスライドした。注意してみると|扉《とびら》は分厚い石の板でで、横に転がせるように|巨大《きょだい》な円になっていた。けれど今は地下道の仕組みに感心している場合ではない。 「箱って言ったか?」  |緊張《きんちょう》で指先が冷たくなる。 「今、箱って言ったよな。それはおれたちが散々苦労させられている、例の四つの箱のことか? それが……」  氷でも呑《の》み込むみたいに喉《のど》が痛んだ。 「ここに?」 「この場所ではないよ」  ヘイゼル・グレイブスはおれの表情を確かめながら、|石壁《いしかべ》の向こうに半歩だけ|踏《ふ》み込んだ。 「もっとずっと北だ、この大陸の|端《はし》さ。神族の土地は広大だ」  人を検分する眼だ。空港の探知器を通らされるような、不快な気分にさせられる。 「こちらの世界に来てからは、不幸にして海を越えたことはない。だから他国と比べることはできないが、生前のあたしの|距離《きょり》感から察するに、|豪州《ごうしゅう》くらいの大きさはあるだろうね」  でも羊はいないよと付け加えて、ヘイゼルは笑った。 「その名のとおりさ、聖砂国。風と砂ばかりで緑地どころか草木も|碌《ろく》にない」 「詳しいんだね、神族でもないのに」 「何年居ると思っているんだい? |坊《ぼう》……さっき陛下が|図《はか》らずも口にしただろう。七十年だよ。七十年も同じ国で過ごせば、此処で生まれた子供よりは物知りにもなるさ」  彼女は小さな石室に我々を招き入れ、壁の油に|松明《たいまつ》の火を近付けた。|途端《とたん》に六箇所へと炎が移り、部屋は昼間のように明るくなる。四方の壁は燃えるように真っ赤だ。  それは単に赤く|塗《ぬ》り|潰《つぶ》してあるわけではなく、|深紅《しんく》の|塗料《とりょう》を使った|壁画《へきが》だった。精密な模様の所々に、人物や|家畜《かちく》や、神と|思《おぼ》しき姿が|描《えが》かれている。流れたての血にも似たただ一色で、二十|畳程《じょうほど》の部屋を|埋《う》め|尽《つ》くしていた。|壮観《そうかん》だ。 「へーえ」  あまり芸術に興味のなさそうなヨザックでさえ、思わず|感嘆《かんたん》の声を上げたくらいだ。 「ここは……礼拝所か何か……?」 「今は単なる集会所さ。もっとも二百年以上前には、入口[#「入口」に傍点]として重要な意味を持っていたらしいけれどね。いいかい、|予《あらかじ》め教えておく」  ヘイゼルは最奥の壁を|叩《たた》いた。|何故《なぜ》か視線は英語の通じるコンラッドではなく、おれに向いている。 「この部屋の壁はそれぞれ通路に|繋《つな》がっている。けれど決してこの先には行っちゃいけない。この先は迷宮だ。昔は人の住む地下都市だったが、二百年前に最後の住人達が|引摺《ひきず》り出されてからは、ずっと放置されたままだ。七十年前にあたしが通った時でさえ、|闇《やみ》ばかりで|頼《たよ》る光もなかった。いいかい、死にたくなかったらこの壁は越えちゃいけない。よほど強い守護天使でも持たない限り、この先の迷宮で生き延びるのは不可能だ」 「でもヘイゼルさんは通り抜けたんだ」 「完全に抜けたわけじゃないよ」  彼女は|埃《ほこり》にまみれた|白髪頭《しらがあたま》を振り、|乾《かわ》いた土の上に|腰《こし》をおろした。不思議なことに座る姿に先程までの壮健さはなく、そこに居るのは疲れ切った小柄な老女だった。親指と人差し指を額に当てて、がっくりと|項垂《うなだ》れている。 「……あたしだって|端《はし》から端まで通り抜けたわけじゃない。そんなことが可能なもんか。地上の騎馬《きば》民族から身を隠《かく》すために、途中の抜け穴《あな》から入って少し歩いただけさ。その僅かな距離でさえ、気が|狂《くる》いそうになった。信じられるかい、数え切れない|廃墟《はいきょ》を|荒《あ》らし、|幾《いく》つもの墓所に|侵入《しんにゅう》したあたしがだよ」  まるで自分自身に言い聞かせるみたいに、ヘイゼルは迷宮の|恐怖《きょうふ》を言い|募《つの》った。 「|銃弾《じゅうだん》の飛び|交《か》う中を|掻潜《かいくぐ》ったことも、密林で|獣《けもの》と|対峙《たいじ》したこともある。|洞窟《どうくつ》を|手探《てさぐ》りで進んだことも、海底の|沈没船《ちんぼつせん》に閉じ込められかけたことだってあるんだ。けれどあれは……あの闇はそんなものじゃなかった。地球上で狩りをするのとは違う、全く違うんだ」  言葉が通じていないはずなのに、ヨザックも口を|挟《はさ》まない。何の話なのか|雰《ふん》囲気《いき》で察しているのだろう。 「三百年程前までは地下都市には人が住み、地上程ではないがそれなりに栄えていたと聞いている。住人は|奴隷《どれい》の中でも最も身分の低い、地上での生活を許されなかった者達ばかりだったが、少なくとも闇はなかった。|灯《ひ》が|点《とも》され、通路は暗黒の迷宮ではなかった。ところがある時代に、当時の聖砂国君主が、地中で生活する奴隷達の|全《すべ》てを地上に引摺り出したらしい。その暴君が住人達をどうしたのかは聞いていないし聞きたくもないが、それ以来此処は神の|御《ご》加護の及ばぬ場所になった。あたし自身、迷宮を|彷徨《さまよ》ったときは、神に見放されたと思ったものだよ……」  声の低さは|呟《つぶや》きに近い。 「……あれは神のお作りになった禁忌の箱で、欲望に|駆《か》られ手を|掛《か》けたから、自分は|罰《ばつ》せられているのだと……」 「そんなことはないよ、ヘイゼル」  思わぬ言葉が口をついて出た。  老婦人は顔を上げた。おれの目を真っ向から|見据《みす》えてくる。 「神は関係ない」 「何故?」  おれは立ったまま、足の裏をしっかりと地面に着けたままで、彼女の|榛色《はしばみいろ》の|瞳《ひとみ》を見下ろして言った。壁画の獣が|襲《おそ》いかかってきそうに感じたが、それは単なる炎のまやかしだ。 「神様は関係ない。あれは大昔に暴れ回った|脅威《きょうい》の存在を|封《ふう》じ|込《こ》めるために、|魔族《まぞく》が作って隠した物だ。おれもあなたも生まれるずっと前の話だ。そうだよな、ウェラー|卿《きょう》」  後ろでコンラッドが|頷《うなず》く気配があった。 「だからあなたが箱のせいで不運な目に|遭《あ》ったとしても、それは決して|神罰《しんばつ》じゃない。あなたの信じる神様は、あなたを見捨てたりしないよ。ただおれには……気の毒だったと言うことしかできないけど……」  ヘイゼル・グレイブスはおれと背後のウェラー卿を見上げ、|暫《しばら》く|黙《だま》り込んでいたが、やがてほんの僅かに唇《くちびる》を開き、細い声で聞き覚えのある旋律《せんりつ》を歌い始めた。言葉は掠《かす》れ、歌詞は聴《き》き取れなかったが、それは確かに|宮殿《きゅうでん》の前で、子供が歌っていた曲だった。 「なんの……」  問いの中程で|肩《かた》を押さえられ、先を|訊《き》けない。横を向くとコンラッドが目を細め、口にはださずに|判《わか》ったと告げた。何の曲か思い出したのだろう。  動きもせず黙って待っていると、ヘイゼルは不意に歌うのをやめた。隠れて泣いたのを見つかった子供みたいな顔をする。 「あたしの|葬式《そうしき》のときに、一人でも歌ってくれていればいいんだけど」 「その曲だったかは知らないが」  コンラッドは一歩進み、座り込んだままのヘイゼルに左手を差し出した。あの|左腕《ひだりうで》を。 「あなたの葬儀には多くの友が出席し、歌い、|嘆《なげ》き、死を|悼《いた》んだと聞きました。遠方にあって|縁《えん》の遠かった者達も、それを|切《き》っ掛けに旧交を温めた。ご息女とその夫君もご立派な態度で、故人を|想《おも》うにはとても良い式だったそうです」 「よかった、喜ばしい。けど|妙《みょう》な気分だね、自分の葬式の様子を異国の地で聞くなんて」 「そして|後継者《こうけいしゃ》であるエイプリルは、あなたの望むとおりの人物になった」  立ち上がりかけていたヘイゼルは、|突然《とつぜん》険しい表情で動きを止めた。おれの知らない名前だが、彼女にとっては|娘《むすめ》か孫なのだろう。 「エイプリルが……」 「彼女はあなたが消えた二年後に、|偶然《ぐうぜん》「箱」に|関《かか》わった。あなたと同じようにね」  耳を疑った。本来四つある「箱」の内、幾つがこちらにあって幾つが地球にあったんだ!? いやそれ以前に、何でこの世界の脅威である物が、地球に存在したのだろう。聞いているだけの身がもどかしいが、ヘイゼルの必死の表情には、魔族側の疑問を差し挟む余地は無さそうだった。 「まさかあの子が、あの子があたしと同じ目に!?」 「いいえ」  ウェラー卿はその左手でしっかりと、ヘイゼルの|皺《しわ》じみた細い指を|掴《つか》んだ。 「彼女は友人達と……ご存知でしょう、あなたの友だ。レジャンとDTと言っていました。エイプリルは彼等の力を借りて、箱を深い水底に|沈《しず》めた。|禁忌《きんき》に|触《ふ》れることなく。ドイツ軍の目を|欺《あざむ》いてね」  老女の顔が|安堵《あんど》に|綻《ほころ》んだ。|目尻《めじり》と口元の皺が深くなる。 「俺はエイプリル・グレイブスに会いました。あなたのことを|誇《ほこ》りに思うと言っていた」 「そう……」  コンラッドはまるで自身の祖母を|慈《いつく》しむような|笑《え》みで、あなたにそっくりだと言った。 「ありがとう、何よりの|報《しら》せよ」  そして今度こそ本当に彼女は泣いた。  ヘイゼル・グレイブスはコンラッドの手を|握《にぎ》り、乾いた|頬《ほお》に|涙《なみだ》を流した。  彼女の時間はやっと繋がったのだ。      4  赤い部屋はヘイゼルの言葉どおり、ある種の集合場所として使用されていた。 「言ったろう、聖砂国の|民《たみ》は地下には神の力が|及《およ》ばないと固く信じている。今はそれを逆手にとって、談合場所として使っているのさ。兵士達も|滅多《めった》なことがなければ|踏《ふ》み込もうとしない。|不吉《ふきつ》だからね。|皇帝《こうてい》に|刃向《はむ》かう者達にとっては、絶好の|隠《かく》れ|家《が》というわけだ」  おれたちが彼女の七十年間を聞いている間にも、|幾人《いくにん》かの神族が入ってきてはそこ|此処《ここ》に居場所を見つけて残っていった。いずれも服装は質素を過ぎて|見窄《みすぼ》らしく、この寒い土地にありながら|裸足《はだし》に近いサンダル|履《ば》きであったり、|薄《うす》い上着だけで|震《ふる》えていたりした。幸い地上に比べて地下は暖かく、この部屋には|灯《あか》り代わりの火もある。夜の中を走るよりは快適だろう。  ごく稀に簡易な食料《しょくりょう》らしき袋《ふくろ》を抱《かか》えた者や、質の悪そうな紙筒《かみづつ》を手にした者もいた。地図か見取り図だろうか。  石戸の|脇《わき》に腕組みをしたヨザックが|陣取《じんど》っていたので、|訪《おとず》れる人達は|皆《みな》ぎょっとして数歩後退《あとずさ》る。それでも|襲《おそ》い|掛《か》かってきたりしないあたり、聖砂国の|奴隷《どれい》階級の人々は、みな大人しい印象を受けた。船旅中にも思ったことだが、彼等には基本的に|闘争心《とうそうしん》というものが欠けているのかもしれない。  それが長所なのか短所なのかは、|一概《いちがい》には言えないけれど。  中には|噂《うわさ》に聞く|黒髪《くろかみ》の一行が|何故《なぜ》ここに居るのかと|詰《つ》め寄る者もあったが、それもヘイゼルに短く|一喝《いっかつ》されると、食い下がることもなく|頷《うなず》いた。  どうやらヘイゼル・グレイブスは年長者というだけではなく、この集団のリーダー的存在でもあるらしい。  しかし室内の人数が五人増えたところで、おれは自分から彼女に提案した。|流石《さすが》に居づらくなってきたのだ。 「あのー、もしかしておれたち自己|紹介《しょうかい》とかしたほうがいい?」  視線が痛い。もっともだ、自分達のリーダーが見知らぬ異国人を連れ込んでいたら、誰《だれ》だって|不審《ふしん》に思う。それも相手は服装こそバラバラだが、皇帝イェルシーと会談予定だった|魔族《まぞく》の使節団だ。まあそこまで事情通の人物がいるかどうかは判らないが、少なくとも未知の言語で話し込んでいるだけでも、人々の不安は|募《つの》るだろう。 「だってこの人達から見たら、おれたち|充分《じゅうぶん》怪《あや》しいだろ。髪も|眼《め》もあり得ないコントラストだし、未知の言語で|喋《しゃべ》ってるわけだし」 「陛下はあたしの客人だ。怪しむ者などいないはずだよ。全員が|揃《そろ》ったら紹介しようと思っていたが……けれど正直なところ、どう説明したものかあたし自身も迷っているんだ」  |加齢《かれい》のせいで|眉間《みけん》に寄った|皺《しわ》をいっそう深くして、ヘイゼルは|口籠《くちご》もった。 「敵ではないと|判《わか》っていても、味方と言い切るだけの条件も揃っていない。何しろあたしには、まだあんたたちの目的が見えてきていないんだからね」 「目的……」  金色の視線とヘイゼルの|赤褐色《せっかつしょく》の|瞳《ひとみ》に|曝《さら》されて、おれは言葉に詰まった。  この旅の目的は幾つもあり、それが複雑に|絡《から》み合い過ぎて簡潔には説明できない。それにサラレギー・イェルシー兄弟との会談の模様をどこまで明らかにしたものかの判断も難しい。それ以前に彼等が兄弟だったことさえ、ヘイゼルはともかく国民の皆さんには知られていないのではなかろうか。 「我々の|渡航《とこう》目的は、聖砂国と小シマロンの国交回復の|行方《ゆくえ》を見届けることだ。|但《ただ》しあくまでも第三者的立場として立ち会う予定で、両者の|折衝《せっしょう》に口を|挟《はさ》む意図はなかった」  ウェラー|卿《きょう》の言い方は、眞魔国側に立っても、逆に大シマロンの使者として|捉《とら》えても問題がなかった。 「だが会談中に想定外のアクシデントがあり、小シマロン国主サラレギーを残して退席を|余儀《よぎ》なくされた」 「|成程《なるほど》、アクシデントね」  ヘイゼルは|皹《ひび》割れた|爪《つめ》で|顎《あご》を|撫《な》でた。 「しかしかなり|際《きわ》どい状態での退席だったようだ。あまり平和的なオブザーバーではなかったのかな。まあいい、別に身分を疑っているわけじゃないんだ。ただあたしはあんたたちも小シマロン王も、国交回復なんていう|可愛《かわい》いものではなく、もっと|質《たち》の悪い目的があったんじゃないかと|危《あや》ぶんでいるんだよ。例えば……」  石戸が引かれて、彼女はちらりとそちらに目をやった。旧知の相手だったらしく、片手を挙げるだけで済ます。 「兵器として利用価値の高そうな品の|探索《たんさく》とかね」  おれは|拳《こぶし》をぎゅっと|握《にぎ》り|締《し》めた。|掌《てのひら》に|温《ねる》い|汗《あせ》をかいている。 「……箱のことを言ってるんだな」 「だって陛下は魔族の王で、あの|厄介《やっかい》な箱は魔族が作った物だと言ったろう? だったらそれを取り|戻《もど》しに来てもおかしくはない。うっかり異世界に飛ばされてしまう|素人《しろうと》よりずっと、使い方も心得ているはずだ」  だったらいいんだけどね。  胸の内だけで|溜息《ためいき》をつき、おれは意識して|硬《かた》い声をつくった。サラレギー、イェルシーとの|巨頭《きょとう》対談をキャンセルしたと思ったら、今度はご当地の|影《かげ》の実力者、ベネラことヘイゼル・グレイブスとの|真剣《しんけん》対決だ。こう腹の|探《さぐ》り合いや|駆《か》け引きの連続では、気の休まる|暇《ひま》がない。  おれが身に着けた駆け引きなんて、無意味な|呟《つぶや》きで打者を|惑《まど》わすことくらいだというのに。 「信じてもらえるかどうか判らないけど、正直に言おう。おれたちは……少なくともおれは、箱を奪いに来たわけじゃない。そもそもあれがこの大陸にあるなんて、我々は予想もしていなかったんだ。それに」  コンラッドを見上げると、|抑揚《よくよう》のない調子で『|凍土《とうど》の|劫火《ごうか》』でしょう、と教えてくれた。そう、箱の名前は『風の終わり』『地の果て』そして今日、|在処《ありか》を知ったばかりの『凍土の劫火』を兵器として利用しようなんて、考えたこともない」 「その言葉を鵜呑《うの》みにしていいものかどうか」 「会ったばかりの人物を急に信用できっこないのは判ってる。でも我々魔族は、強大な力を|封《ふう》じ|込《こ》めるためにあれを作ったんだ。決して|他《ほか》の国や他の民族に行使するためじゃない。いま箱の在処を知っても、本音を言えばそのままそっとしておきたいくらいさ。誰にも悪用されない確約があるならね。大シマロンとか、小シマロンの……」  |喉《のど》が鳴った。少年王の|犯《おか》した|行為《こうい》を思い出したからだ。 「サラレギーの手に|渡《わた》って、悪用されないって保証があるなら、これ以上|詳《くわ》しい場所なんか聞きたくない」  彼は実験の名目で|囚人《しゅうじん》を集め、カロリアを|破壊《はかい》した。人々の役に立とうとするアニシナさんとは、理想の高さが|随分《ずいぶん》違《ちが》うじゃないか。 「本当に?」  名前のとおり|榛色《はしばみいろ》の瞳で、おれの顔をじっと|見詰《みつ》めた。相手のほうが背が低いので、自然と見上げる角度になる。|酷《ひど》く居心地の悪い理由は、彼女の眼だ。物の本質を|見極《みきわ》め、|鑑定《かんてい》する眼を持つている。 「あたしのように間違えたりしなければ、|凄《すさ》まじい|威力《いりょく》を持つ貴重な箱だよ。|遺《のこ》された記録によると、ドイツの研究している新型|爆弾《ばくだん》にも|匹敵《ひってき》するかもしれない。|融合《ゆうごう》と分裂の特性を利用した|恐《おそ》ろしい物だそうだよ。都市ごと|吹《ふ》っ飛ぶ。そんな強大な力を手にしても、あんたたちはそれを使わずにいられると?」 「使わない。使わせないために、もっと深く、絶対に見つからない場所に隠したい」  ヘイゼルはきっかり五秒間、|黙《だま》っておれの顔を|眺《なが》めた。その間ずっと心の奥底を|覗《のぞ》かれている気がした。やがて彼女は|頬《ほお》を|緩《ゆる》め、善良そうな老婦人の表情に戻る。 「悪かったね、どうも|坊《ぼう》や……失礼、陛下が、地球でいう日本人に見えてしまって。あんな国に|凶悪《きょうあく》な兵器を持たせたら、世界がどうなるか判ったものではないからね」 「……あんな国……」  仕方がない、ヘイゼル・グレイブスの中の地球史は、一九三六年で止まっているのだ。日本は|徹底《てってい》した軍国主義で、アメリカは|未《ま》だ参戦していなかった。それどころか大戦さえ始まっていなかったのだ。彼女は二十世紀がどう終わったかを知らない。 「難しいなー、国際政治って」 「そうですね」  もう少し後の世界を知るコンラッドが、|肩《かた》を落とすおれを|宥《なだ》めるように言った。お前は良くやっている、誰かにそう|慰《なぐさ》めてもらいたい気分だ。  落胆《らくたん》の理由には思い至らないまま、ヘイゼルは笑顔《えがお》で詫《わ》びた。 「申し訳ない、外見で判断するような|愚《おろ》かな|真似《まね》をしてしまった。黒い目や黒髪の人物に久し|振《ぶ》りに会ったものだからね。でも陛下はとても誠実そうだし、それにキュートだ。女性票の|獲得《かくとく》も容易だろうね。あたしの友達のアジア人とは大違いだよ」  その先は真顔に|戻《もど》り、|優《やさ》しい老婦人はたちまち姿を消す。これが「ベネラ」としての顔なのだろう。 「そして何より、あなたは魔族の王、|唯一《ゆいいつ》シマロンに|対抗《たいこう》できる存在だ。|信頼《しんらい》に足る人物だと思いたい。でなければあたしたちがこれまでしてきたことは、永遠に|報《むく》われなくなってしまう。この国の現状が明るみにでるように、海の向こうに広まるようにと、あたしたちは船を出し続けてきたんだから。仲間がどんなボロ船で海を|越《こ》えようとしたか知ってるかい?」 「知ってる、|接触《せっしょく》したよ。|無謀《むぼう》もいいところだ」 「そう、死にに行くようなものだよ」  あんな|荒《あ》れ|狂《くる》う海域に、漁船に毛の生えた程度の乗り物で旅をさせるなんて。しかも大半は小シマロンに流れ着き、子供だけ|奪《うば》われて送り返される。おれは服の上から胸を押さえ、かさつく|感触《かんしょく》をぎゅっと|掴《つか》んだ。そこには親しくなった|双子《ふたご》からの手紙が入っている。ジェイソンとフレディの。|託《たく》されたゼタとズーシャの|想《おも》いも|詰《つ》まっている。  恐らくその|薄《うす》っぺらい紙切れの向こう側には、もっともっと多くの、数え切れない|程《ほど》の人の願いがあるのだろう。 「それでも船は出さなければならない。|誰《だれ》かが行かなくては。あたしたちはもう三十年以上同じことを続けているが、シマロン領は|駄目《だめ》だった。シマロンに流れ着いた|同胞《どうほう》がどういう運命を|辿《たど》るかはもうご存知だろうね。シマロン領以外に関しては判らない、|皆目《かいもく》見当が付かない。握り|潰《つぶ》されているか、そのまま|体《てい》のいい労働力として|搾取《さくしゅ》されているのかもしれないし」  ふと見るとヨザックが、女性から何か黄色い|塊《かたまり》を|貰《もら》っていた。自分の口を示し、食べていいものかどうか|訊《き》く。神族の女性は細い指でそれを千切り、|微笑《ほほえ》みながら彼の口元に差しだした。言葉も通じないのに親しくなるのが早い。ヘイゼルも同じ光景を見ていたらしく、ほんの少しだけ表情を緩めた。 「そうしている間に戦争が激化し、シマロンが二つに分かれたと聞いた。出島を|訪《おとず》れる貿易商から|漏《も》れ伝わってね。同時に、シマロンに対抗する勢力があることも知った。|驚《おどろ》いたよ、ここ百年のシマロンの|侵攻《しんこう》速度といったら、ローマや大英帝国どころじゃなかったのに。この閉ざされた土地で、限られた情報しか入ってこない|環境《かんきょう》にいたせいか、もう全世界がシマロンの物になってしまっているように感じていたからね。世界の|覇権《はけん》はシマロンにあり、それを大小二人の王が分け合っているのだと、あたしも仲間も絶望していた」  お庭番は呑気《のんき》にも、貰った食べ物を咀嚼《そしゃく》している。英語が理解できず退屈しているにしても、ちょっと|意地《いじ》汚《きたな》いぞヨザック。|逃避《とうひ》しかける神経を、無理やりベネラの話に戻す。 「ところがシマロンは、戦いに勝ったわけではないというじゃないか」  |如何《いか》にも痛快そうに、ヘイゼルは肩を|揺《ゆ》すった。他国の事情なのに。 「あの強大な国家に|屈《くっ》することなく対等に戦い、頭を下げさせた国があると。それを聞いてあたしがどう感じたか|判《わか》るかい? 世界は広いんだと思ったね。そしてもしかしたら両シマロンではなく、もっと他の、|虐《しいた》げられた者達から搾取しない土地もあるのではないかと思うようになった。我々の|窮状《きゅうじょう》を知って、調停役を名乗り出てくれるのではないかと夢見た。希望を持ち始めたんだ……希望というのは厄介な|代物《しろもの》でね」  ヘイゼルは両手を天に向けて肩を|辣《すく》めた。映画でよく見る外人ポーズだ。 「……止められなくなってしまったんだよ」 「何、を」 「船を出すことを」 「そんな」  おれは|困惑《こんわく》して何度も手を握ったり開いたりした。掌にかいた汗を|腿《もも》に|擦《こす》りつける。 「じゃあ神族の皆があんなボロ船で、無謀と知りつつも|脱出《だっしゅつ》を|図《はか》るのは……おれたちが……眞魔国がシマロンと戦争したせいだっていうのか。魔族が他の国と同じようにあっさり|降伏《こうふく》していたら、あんたたちも早くに|諦《あきら》めてて、|無駄《むだ》な|犠牲《ぎせい》を出さなくて済んだっていうのか?」 「そんなことは言っていないよ陛下」  ヘイゼルの|椰楡《やゆ》するような調子に、おれは黙って|唇《くちびる》を|噛《か》んだ。 「ただあたしは、シマロンに打ち勝った国の存在が、我々に希望を|与《あた》えたと言いたかったのさ」  希望。  その短い単語を聞いて、おれはこの地に立った理由の一つを思い出した。  ベネラ、希望、助ける。  そうだ、、おれたちは……少なくともおれは、箱を探しに来たわけでも、聖砂国と小シマロンの国交回復を|妨《さまた》げに来たわけでもない。手紙をくれたジェイソンとフレディの願いを|叶《かな》え、少女達を救出しに来たのだ。二人の人生に責任を持つと言った。約束したのだから。 「希望といえばあなただろ、ベネラ」  故意に彼女の本名ではなく、人々に|讃《たた》えられる名前を口にする。 「あなたは|奴隷《どれい》として虐げられ、|抵抗《ていこう》する気力もなくなった人々を奮い立たせた。もっと違う人生があるんだと教えて、今の環境から|抜《ぬ》け出すための手段を教えた。教えるだけじゃなく、指揮して実行にまで導いたんだろう? この国の人々の希望はシマロンと和平を結んだ眞魔国なんかじゃない。ヘイゼル・グレイブス、あなたなんだよ」  約束どおり会いにきたよ、ジェイソン、フレディ。君達はおれに何を望んでいるんだろう、ベネラという|象徴《しょうちょう》的な存在を、何から救えばいいんだろう。 「おれが仲間と|離《はな》れてまでこの土地に来たのは、友達になった双子との約束を果たすためだ。その子達はベネラを助けてくれと言ってきた。ジェイソンとフレディっていう十二かそこらの女の子だ。二人の所在を知ってるかな」 「ジェイソンとフレディ……どこかで聞いたような……その子等があたしを助けろと陛下に言ったのかい?」  心当たりがないのは双子の居場所なのか、それとも自分自身の危機に関することなのか、ヘイゼルは数分間本気で|悩《なや》み、まるで|占《うらな》い|師《し》みたいな一言を漏らした。 「神族らしくない名前だ。奴隷階級じゃないのでは」 「生まれてすぐに連れ出されたらしいんだ。国外での養成施設で育てられたから、名前もそこでつけられたのかも。とても|魔術《まじゅつ》が……|違《ちが》った、法力が強い。持って生まれたものらしい。待てよ、サラの説明では……」  サラレギーによると、どんなに高貴な身分の生まれでも、法力のない子供は奴隷として|扱《あつか》われるということだった。|極端《きょくたん》な話、女王の産んだ双子の片割れでも。逆にジェイソンとフレディは高レベルの法力を持っている。|他《ほか》の法術師達が|頼《たの》みにしている法石の力も借りずに、|凄《すさ》まじい|破壊《はかい》力を見せつけてくれた。おれなんか足元にも|及《およ》ばぬ程だ。  あれだけの|攻撃《こうげき》力を持ち合わせていれば、奴隷階級には属さないのかもしれない。ではおれは今ここにいる人々ではなく、もっと|恵《めぐ》まれた、|裕福《ゆうふく》な環境にいる子供を助けに来たのか? それをこの場で言ってしまっていいものかどうか悩む。  ヨザックが顔の横で指を動かし、「食い物をくれるそうですよ」と小声で告げてきた。 「この辺で一息入れましょうや、|坊《ぼっ》ちゃんだって腹ぁ減ってるでしょ」  |隣《となり》では先程の女性が、親切そうな笑顔で包みの中を|掻《か》き回している。ただでさえ少ない|食糧《しょくりょう》だろうに、見ず知らずの異国人にまで分けてくれようというのだ。  きみたちに力を貸しに来たのではないなんて、どんな顔をして言えばいいのか。  おれの|逡巡《しゅんじゅん》をよそに、ヘイゼルが|叫《さけ》んだ。 「|外海《がいかい》帰りか!」 「え?」 「外海帰りだね、その二人は。海の向こうの他の土地から|戻《もど》ってきた連中をそう呼ぶんだ。|外界《がいかい》を知らない多くの奴隷達と区別するためにね。だったら数度会っているかもしれない。あたしがいつもの姿で|巡回《じゅんかい》していた時だ」  そこまで一息に言って、ヘイゼルは|自虐《じぎゃく》的に唇を|歪《ゆが》めた。 「あたしの本職は肥車|牽《ひ》きの|婆《ばあ》さんだから」  高校生で野球|小僧《こぞう》の魔王がいるのだから、有機農法の肥料を運んでいる指導者がいたって|可笑《おか》しくはない。 「でも、もしその子達が外海帰りだとしたら……|可哀想《かわいそう》に、とんでもない場所に|繋《つな》がれていることになる」 「繋がれてる!? だって犯罪者や|謀反人《むほんにん》でもなく、下手したら奴隷階級でさえない子供達だぜ!? この国の価値観で判断すれば、法力の強い子供はエリートなんだろ?」  |物騒《ぶっそう》な|響《ひび》きにたちまち不安になる。おれの|捜《さが》す少女は、|鎖《くさり》の必要なペットや|家畜《かちく》ではない。 「国から一歩も外へ出ず、終生良き市民でいさえすればね。でも、外海帰りはそう簡単にはいかない。何も知らなければ今の体制に疑問も抱《いだ》かず、神と支配者に忠誠を誓っていられるだろう。だが、一度外の世界を知ってしまえば、ここの異常さに気付かずにはいられない。そうなると単なる奴隷より|面倒《めんどう》だ」 「面倒って!」 「知識と情報を持っているからね」  ヘイゼルは|乾《かわ》いた指で|髪《かみ》を掻き上げ、絶望だとばかりに頭を|振《ふ》った。 「外海帰りは専用の施設に|隔離《かくり》され、|勾留《こうりゅう》される。周囲の者達を|啓蒙《けいもう》し、良からぬ|影響《えいきょう》を与えないように。施設とは名ばかり、実際は|荒野《こうや》の|直中《ただなか》の収容所だ。|囚人《しゅうじん》だよ、|刑務《けいむ》所《しょ》暮らしも同然さ」 「そんな」 「国内に何箇所か点在していて、その内の一つはイェルシウラドからそう遠くない。二十日に一度は物資が送られる。あたしでなく、牛が荷車を牽いてね。|蓋《ふた》は開けないから中身は判らないが、|匂《にお》いからして囚人の食糧じゃあなさそうだ。|僻地《へきち》勤めの役人の|嗜好品《しこうひん》か何かだろう」  ヘイゼルの口調には明らかに同情が込められていた。友人になった少女達は、この場の|誰《だれ》よりも|苛酷《かこく》な|境遇《きょうぐう》に置かれているのだ。 「運良く協力者が荷運びの任に|就《つ》いた時は、あたしもできる限り|訪《おとず》れるようにしている。航海にしくじって送り返された者も多く収容されているから。彼等に関してはあたしに責任がある」  同情と苦痛の入り混じった声だ。冷静さを保つために歯を食い|縛《しば》らなければならないような。けれどおれにはもう、彼女の話など聞こえていなかった。足元の地面が砂に変わり、|身体《からだ》ごと|崩《くず》れ落ちて行く気がして、立っているのがやっとだったのだ。 「……おれだよ」  両手の指を開いたままで、|頬《ほお》の|震《ふる》えそうな顔を|覆《おお》った。小指に|填《はま》った|薄紅《うすべに》色の石が、冷たいままで|目尻《めじり》に当たる。|無性《むしょう》に腹が立ち、誰かを心の底から|憎《にく》みたくなった。でもそう簡単には|逃《に》げられない。  責任は、おれにある。 「おれがあのこたちを、そんな|酷《ひど》い|処《ところ》に……」 「|違《ちが》います陛下」  コンラッドに|両肩《りょうかた》を|掴《つか》まれて、やっと落下の感覚はなくなった。しかし|後悔《こうかい》の言葉は次から次へと|浮《う》かんでくる。 「あのとき止めれば良かったんだ。止めるか、せめてもう少し聖砂国の政情や神族の思想について調査してから二人を送り届ければ……それまで待てって説得してれば、こんなことには」 「あなたのせいではありません」  彼の|腕《うで》を振り|解《ほど》いて向き直り、背中から勢いよく|壁《かべ》に|倒《たお》れ込んだ。ヘイゼルの顔色が変わる。おれは何かしただろうか、と一瞬迷う。ヘイゼルの視線はおれと、背後の石壁に|注《そそ》がれていた。 「いや、|寧《むし》ろおれが直接ついて行くべきだったんだ。最後まで責任持つなんて軽々しく言っておきながら、|肝腎《かんじん》なところで他人に任せた。自分で送って行けばよかった。この|眼《め》で、あの二人が幸せになるのをちゃんと見届けるべきだったんだ! そうだ、|一緒《いっしょ》だった小さい連中はどうしたんだろう。まさかあのチビちゃんたちまで酷い目に……」 「あなたのせいじゃない!」 「坊ちゃん?」  異変に気付いたヨザックが|駆《か》け寄ってきた。ちらりとコンラッドの様子を|窺《うかが》いながらも、|剣《けん》に指が|掛《か》かっている。疑いはまだ晴れていないのだろうか。おれにしてみればそれも|辛《つら》い。 「だから言ったでしょう、坊ちゃん。一息入れて飯でも食いましょうって。空腹のまま深刻な話なんぞしても、立ち|眩《くら》みでぶっ倒れるのがオチなんだから」 「腹が減ってるせいじゃないよ」 「いーえ腹が減ってるせいなんです」  彼はきっぱりと断定した。 「満たされていない時に考え事をすると、ろくなことにならない。そいつは太古の昔から先祖代々言い伝えられてきた至言ですよ。|眞王《しんおう》様だってそう|仰《おっしゃ》ってるわ」 「逆に満腹だと血液が胃に集中して……むぐ」 「口答えしない。いいですか陛下、こういうのは本当に|飢《う》えたことのある|奴《やつ》にしか|判《わか》らないんです」  |割烹着《かっぽうぎ》を着たおばちゃんそのものの仕種で、グリ江ちゃんはおれの口に黄色い|塊《かたまり》を|突《つ》っ込んだ。チーズとヨーグルトの中間の味がする。それからウェラー|卿《きょう》に向かって、|牽制《けんせい》するみたいに言った。 「毒味済み」 「……知ってる」  先祖代々の至言だと|豪語《ごうご》するだけあって、グリ江ちゃんの言葉は半分は本当だった。乳製品らしき食べ物を|噛《か》む内に、自己|嫌悪《けんお》は多少治まり、先のことを検討する気力も|僅《わず》かながら|湧《わ》いてきた。多少は、だ。まだまだ罪悪感のほうが|幅《はば》を|利《き》かせているのだが。  おれはしくじった。ひとの一生を左右する重大な局面で、大きな|過《あやま》ちを犯した。その|愚《おろ》かさと深刻さを|想《おも》うと、寄り掛かる壁の表面から、|猛獣共《もうじゅうども》に|嘲笑《あざわら》われるような気がした。  だがまだ終わっちゃいない。  ジェイソンとフレディの人生は未だ九回裏じゃないし、|償《つぐな》えることもあるはずだ。 「……教えてくれ」 「何をだい?」  |黙《だま》って見守っていたヘイゼルが、|両腕《りょううで》を組んで聞き返してきた。 「外海帰りの人々が隔離されてる場所だよ。それを知ってる限り教えてくれ。まずは首都に近いところからだ。おーい!」  部屋の|隅《すみ》に立っていた神族の若者を手招く。|抱《かか》えた紙筒が地図であるように願いながら。 「必ず助けだす……必ず」  ヘイゼルは可笑しげに|顎《あご》を反らし、|荒《あら》くれ者みたいに指をボキボキ鳴らした。 「いいだろう、いい根性だ」  もはや|優《やさ》しげな老婦人の|面影《おもかげ》などどこにも無い。 「|坊《ぼう》やを見てると|孫娘《まごむすめ》を思い出すよ。|頑固《がんこ》だがとにかく|諦《あきら》めない子でね。別れた時にはちょうどあんたくらいの|歳《とし》だった。出来る限りの協力はしよう。元々その女の子達は、あたしの身を案じて陛下にお願いをしてくれたんだろう?」 「そのはず、なんだけど」 「自分等が繋がれているのに、他人の心配をするなんて。まったく良くできた子供達だ。そういう子を救わないわけにはいかないじゃないか……ああ、まず|此処《ここ》」  そう言うと地面に紙を広げ、自分の|膝《ひざ》で|右端《みぎはし》を押さえた。聖砂国全土を表す地図は、周囲を波のマークで囲まれた、|巨大《きょだい》な|帆立《ほたて》の|貝殻《かいがら》に見えた。本国作成のオリジナルマップにも|拘《かかわ》らず、やっぱり山地や平原の区別が|暖昧《あいまい》だ。|幾《いく》つかの山脈が記されているとはいえ、全体的に|起伏《きふく》の少ない地形のようだ。  ヘイゼルの指先を目で追っていくと、中央、西、南東と動いた。 「あたしが知っているのはこの四つだ。イェルシウラドの北西、西の|崖《がけ》っ|縁《ぷち》、出島のちょうど反対側……それと……」  四番目の場所へと向かう指のスピードが落ちた。まるでそれまでの三ヵ所よりも|勿体《もったい》をつけているようだ。不思議に思って視線を上げると、ヘイゼルの口元が皮肉っぽく|歪《ゆが》んでいた。こちらを|焦《じ》らしているわけではなさそうだ。 「そして此処、大陸の|最北端《さいほくたん》にもう一箇所。この辺りには王家の|墳墓《ふんぼ》があって、幾つかの|騎馬《きば》民族が実権を|握《にぎ》っている。王の墓を守るという名目の|下《もと》に」 「実権を握ってるって?」  聖砂国は|皇帝《こうてい》の単独政権で、権力は|全《すべ》てイェルシーに集結しているのではなかったのか。そう|訊《き》き返そうとしたおれの疑問は、ヘイゼルの次の言葉ですっかり消えてしまった。彼女はこう言ったのだ。 「あたしが飛ばされて来た場所だ。『箱』と一緒にね」 「何だって!? じゃ、じゃああれは今も、そこに」 「ああ|恐《おそ》らく。誰にも気付かれてなけりゃあ|古墳《こふん》の底に|眠《ねむ》ってるよ。歴代皇帝の財宝と共にね。あたしが命|辛々《からがら》逃《に》げだしてから、誰も|盗掘《とうくつ》に入ってなきゃいいけど」  顔を見合わせるおれたちを|後目《しりめ》に、ヘイゼルはふてぶてしさを|装《よそお》って続けた。 「それにしても古墳の中だなんて、トレジャーハンターが閉じ込められるには絶好の場所じゃないか。あの箱に意思があるとしたら、かなりのユーモアの持ち主に|違《ちが》いない」  笑えない|冗談《じょうだん》だ。カロリアの|惨状《さんじょう》を|目《ま》の当たりにした人間にとっては、特に。  |抗議《こうぎ》するのは|止《や》めておいた。箱の秘密を知る者を|敢《あ》えて増やすことはない。というよりも機を|逸《いっ》したというほうが正しい。|突然《とつぜん》響《ひび》いた|鈍《にぶ》い音に、全員の注意が集まってしまったのだ。  それは外から石を打ち鳴らす音だった。酷く|慌《あわ》てている。一番近かった青年が|急《せ》かされるように石戸を引いた。 「ベネラ!」  男は入って来るなりヘイゼルの名を|叫《さけ》び、駆け寄って早ロで|捲《まく》し立てた。握っていた|紙片《しへん》を|渡《わた》して自由になった両手は、野菜でも切るように縦に動いている。彼なりの|身振《みぶ》り手振りなのだろう。|如何《いか》に|焦《あせ》っているかは目を見れば判る。|眼鏡《めがね》の分厚いレンズ|越《こ》しに、巨大な金色の眼球が左右に動いていた。|馬鹿《ばか》にしてない、ユタは馬鹿にしてないから。  |頬《ほお》と顎を|覆《おお》う|柔《やわ》らかそうな|髭《ひげ》の白カビ具合といい、どうも|何処《どこ》かで見た顔だ……。 「あっ!」  |一頻《ひとしき》り説明を終えた男は、おれの声に|驚《おどろ》いて初めてこちらに視線を向けた。ぎょっとして数歩|後退《あとずさ》る。 「アチラさん!?」 「コ、コチラサン!?」  この男は巨頭会談に立ち会っていた通訳だ。相変わらず動転すると顎の白|黴《かび》が逆立つようだ。胸に|着《つ》けられた名札の間違いが|鮮明《せんめい》に|甦《よみがえ》る。通詞・アチラ、三文字目が左右逆表記だったっけ。 「ああそうか、顔見知りのはずだね」 「どうして|翻訳《ほんやく》コンニャ……法術の持ち主が|抵抗者《ていこうしゃ》のアジトに!?」  相手も全く同じ事を|訊《き》きたいだろう。どうしてバルコニーから落ちた|間抜《まぬ》けな客人が、地下迷宮の入り口に!? 「アチラは市民だが、あたしたちの心強い協力者だ。祖父母の代が|奴隷《どれい》でね、あたしがちょっとしたアドバイスをしたんだ。そんなことよりも彼の持ってきた情報だ。陛下も興味があると思う」 「はなしを?」  |一瞬戸惑《いっしゅんとまど》ってから、説明を聞きたいかという意思|確認《かくにん》だと理解した。彼の共通語は|徹底《てってい》的な省略話法だ。相変わらずの|超《ちょう》訳ぶり。やっぱり|特殊《とくしゅ》な法術の持ち主というよりも、単なる語学が|堪能《たんのう》な人にしか思えない。  おれは勢い込んで答えた。動詞だけで。 「聞く聞く!」 「あす、昼、しょけいが」 「……というと?」 「|処刑《しょけい》デス、陛下」  苦々しい口調のコンラッドに、わざわざ英語で教えられる。ヘイゼルも|頷《うなず》いていた。 「ちょ、ちょっと待ってくれコンラッド、まさかこんなことで|駄酒落《だじゃれ》言うような人じゃないよな? そんな|不謹慎《ふきんしん》な人じゃないもんな」 「処刑は処刑だよ、陛下。我々への見せしめだ。|摘発《てきはつ》された反抗者や、さっき言った外海帰りの中から、運の悪いのが引っ張り出される」 「こ、殺されんの?」  横でおれたちのやりとりを聞いていたヘイゼルは、|今更《いまさら》何をと|怪訝《けげん》そうな顔をした。 「魔族は|吊《つる》さないのかい? それにしても急だね、しかもどうした風の|吹《ふ》き回しだろう、ここ何年かは公開処刑は行われていなかったんだが。特にイェルシーが|即位《そくい》してからは、我々への|締《し》め付けも以前よりは|緩《ゆる》くなって喜んでいたのに。ついにあの子も母親と同じ路線に|宗旨《しゅうし》替《が》えってことか」  |忌々《いまいま》しげに|吐《は》き捨てるリーダーに、おれは|胸《むな》ぐらを|掴《つか》みそうな勢いで|食《く》って|掛《か》かっていた。 「助けるんだろ、助けるんだよな!?」 「そうしたいのは山々だが……それで新たにでる|犠牲《ぎせい》と|被害《ひがい》を考えると、そう簡単には決断できない」 「そんな、見殺しにすんのかよ!?」  ヘイゼルは厳しい表情のままで、|曾孫《ひまご》くらいの|年齢《ねんれい》のおれに|肩《かた》を|揺《ゆ》さぶられている。見かねたコンラッドに引き|離《はな》された。 「|判《わか》ってるさ!」  異国の、|他《ほか》の組織の問題だ。|干渉《かんしょう》しすぎるのは良くない。感情的になり、|恫喝《どうかつ》するなんて|以《もっ》ての|外《ほか》だ。 「判ってる! けれどおれにはどうしてもこれが……これがサラレギーの|影響《えいきょう》に思えて仕方がないんだ」 「だからどうだと|仰《おっしゃ》るんですか。|喩《たと》え処刑がサラレギーの|入《いれ》知恵《ぢえ》だとしても、ここは聖砂国で決断するのはベネラたちです。こちらが救出を強要するべきではないでしょう」  ウェラー|卿《きょう》は|尤《もっと》もらしいことを、|憎《にく》たらしいほど冷静な口調で告げた。もちろんおれだって頭では理解しているのだ。けれど未熟な感情面はどうにもならない。数百年前からある土を|蹴《け》り飛ばし、|埃《ほこり》を上げる。  |弾《はず》みで口にしてはならない言葉までが|溢《あふ》れだす。 「あんたは今っ、どっちの立場で物を言ってるんだー!?」  ぶつけてはならない疑問まで。 「おれの仲間なのか、それとも……大シマロンの使者か」  長過ぎる間を置いてから、ウェラー卿は|掠《かす》れた声で|応《こた》えた。 「……どちらをお望みなんですか」  同じ|台詞《せりふ》を|違《たが》わずに、今度はきちんと魔族の言語で|繰《く》り返した。 「陛下はどちらをお望みなんですか」  何も言えなかった。 「お取り込み中悪いんだが」  情報提供者のアチラに渡された紙片を|睨《にら》んでいたヘイゼルが、顔も上げずに割って入った。自分から当たっておきながら、おれは|密《ひそ》かに胸を|撫《な》で下ろす。答えをださずに済んでほっとしていた。  だがほんの|僅《わず》かな|安堵《あんど》は、告げられた内容のせいで|跡形《あとかた》もなく消し飛んでしまった。あの独特の、羽ばたく鳥の連続写真みたいな文字を読みながら、ヘイゼルはぎゅっと|拳《こぶし》を握り締めた。 「いいニュースと悪いニュースがある。どちらから聞きたい?」 「い……」 「ではまず、いいニュースから。今回引き出された運の悪い連中は五人だけだ。通常よりずっと少ない」  それがいいニュースなのか。 「しかしその五人の中に、神族らしからぬ|響《ひび》きの名前がある。それも大人ではなく、少女二人」  ヘイゼルは|呪《のろ》いの言葉でも吐きそうな声で、短いコメントを足した。 「最悪だ」      5  テリーヌは船旅を|満喫《まんきつ》していた。  |凪《な》いだ海を|往《ゆ》く「うみのおともだち」号は、揺れも少なく快適だ。またいつもなら自分を|膝《ひざ》から離さない山脈隊長も、最近では時々こうして|木桶《きおけ》の上で|甲羅《こうら》干《ぼ》しさせてくれる。いくら好んで|一緒《いっしょ》に居るとはいえ、テリーヌ自身はどちらかというと|束縛《そくばく》されるのが|嫌《きら》いなほうだから、たとえ|束《つか》の間でも独りにしてもらえるのは有り難い。  |依存《いぞん》傾向《けいこう》が軽減しているのかもしれない、とテリぼんはぼんやりと思った。それもこれも海のなせる|業《わざ》なのだろう、きっと。  無論、焼き過ぎはお|肌《はだ》に良くないが、長い長い骨の一生だ、骨黒な時期があったって構うまい。今日も山脈隊長の手の油を|塗《ぬ》って、午後から|日向《ひなた》テリぼっこだ。  まさかそこであんな場面を|目撃《もくげき》してしまおうとは、テリーヌは夢にも思っていなかった。彼女(?)が無意識にとってしまった行動を、一体|誰《だれ》が責められようか。  デッキの前方にはフォンビーレフェルト卿ヴォルフラムが、航海の無事を|祈《いの》る|女神像《めがみぞう》よろしく立っていた。  口元に|吐潟物《としゃぶつ》を付けたままで。  ヴォルフラムの|船酔《ふなよ》いは相変わらずだった。魔族最悪の秘術、ギュンターの守護とやらを受けたのに、吐き気に|襲《おそ》われずに済んだのは僅か二日間だけ。これでは一体何のために、あの|薄《うす》気味悪いお守り|袋《おくろ》まで持たされているのか|解《わか》らない。 「……しかも|髪《かみ》の毛で編んであるんだぞ……」  ユーリ風に言えば一〇〇%ウールで高級感たっぷりだそうだが、実際はギュンターのケ・ジュウワリ、異国の人名風の響きだ。  彼は|懐《ふところ》から灰色の|巾着袋《きんちゃくぶくろ》を取りだすと、|呪《まじな》いのアイテムを海風にぶらぶらさせた。ぶらぶら、ぶらぶら。 「何だ、今日は吐いてねえのか」  ぶらぶらさせた袋に|釣《つ》られたわけではあるまいが、アーダルベルトがふらふらと近寄ってくる。相変わらずの肉体派だが、彼にしてみればここ数日は、かなりお|疲《つか》れ気味だった。目の下にははっきりとした|隈《くま》ができている。|自慢《じまん》の筋肉も|萎《しぼ》みがちだ。  とはいえ、好意を持っている相手でもなかったから、心配してやる気にもなれずに、ヴォルフラムは|不機嫌《ふきげん》そうに鼻を鳴らした。それどころかつい先日までは、魔族の敵と目されていた人物だ。慣れない航海で体調を|崩《くず》したとしても、気に掛けてやるつもりはない。  ところがアーダルベルトは生気の|抜《ぬ》けた顔で、ヴォルフラムに一包の粉薬を差しだした。 「使えよ。船酔いの薬だ。もっとも人間用だから、お前さんにゃあ効かねえかもしれんがな」 「ハァ? 何言ってるんだ、自分で飲め」 「オレが? 吸血|蝙蝠《こうもり》の眼球と毒々チチカエルと|腐《くさ》った|梨《なし》と魚人|殿《どの》の|鱗《うろこ》をすり|潰《つぶ》して粉にした|酔《よ》い止めをオレが飲むって? 飲むわけないじゃねえか」  親切だったのか|嫌《いや》がらせだったのか判らない。アーダルベルトは|甲板《かんぱん》の|手摺《てす》りに掴まり、筋肉に物言わせて危険なほど身を乗り出した。 「オレは別に船酔いじゃないからな」 「だったら何だ、どうしてそんなげっそりした顔をしている? 言っておくが、お前を|乗艦《じょうかん》させるために、僕等は多大な犠牲を|払《はら》っているんだからな! いざというときに体調不良で役に立たないなんてことになったら、その筋肉、部位ごとに分けて海に投げ込むぞ」  乗り物酔いは人を過激にする。だがアーダルベルトはその発言を笑い飛ばすどころか、言われてがっくりと|項垂《うなだ》れた。 「いっそ海に投げ込んぢまいたいぜ……」 「な、なんだグランツ、一体全体どうしたんだ」 「この|辛《つら》さ、お前さんにゃ判らないだろうなあ」  彼は遙《はる》か遠くの水平線を眺《なが》めながら言った。目が虚《うつ》ろだ。 「あの声が耳について離れねえんだ……おとぉさま、おとぉさま、ってな。ああしかも|語尾《ごび》がちょっと疑問調だ。小首を|傾《かし》げて、おとおさま? って感じ」 「な、ななな、ななななナニーっー!?」  ヴォルフラムは飛びすさり、 「キサマ、|魔族《まぞく》を裏切って人間達に|与《くみ》したばかりでなく、|隠《かく》し子までいたのか!? しかもそんな|幼気《いたいけ》で|可愛《かわい》い女の子を、よりによってユーリ救出のためのこの|艦《かん》に、こっそり連れ込んでいたのか!?」 「オレの|物《もの》真似《まね》が|幼気《いたいけ》で可愛く見えたのか? お前……そりゃ|重症《じゅうしょう》だ」  アーダルベルトは|頑丈《がんじょう》な|腕《うで》で|金髪《きんぱつ》を|掻《か》き回し、絶望たっぷりの声で|唸《うな》った。 「百五十年近く生きてきたが、まさか自分が毒女の|毒牙《どくが》にかかるとは思わなかったぜ! オレだけは大丈夫と思っていたのに」 「ああ、またアニシナ|絡《がら》みか」  美少年は何となく|納得《なっとく》した。アニシナが絡んでいるとすれば、どんな不気味なことが起ころうと不思議ではない。筋肉男にどうして|娘《むすめ》ができたのかは不明だが、毒女に|関《かか》わった以上、|諦《あきら》めるしかないのだ。 「娘には|疎《うと》まれるよりも好かれるほうがずっと|嬉《うれ》しいじゃないか。まあ可愛い娘が相手では仕方がない、密航の件は聞かなかったことにしておこう」 「だ、だからどうしてオレに娘がいると思うんだ!?」  すっかり父親モードに|突入《とつにゅう》したヴォルフラムは、他人の言うことなど聞いちゃいない。たとえ相手が虫の好かない男でも、グレタの自慢を語れればそれで満足なのだ。 「確かに男親は、おとーさま? と呼ばれるのには弱いな。そんな疑問調でおねだりされたら、欲しい物は何でも買ってあげてしまう。そうだ、|歳《とし》はいくつなんだ?」 「え、と、歳? 歳か? |老《ふ》けて見えるが、実際はまだ三十……四、五か」 「五歳か! うちは十歳なんだ。では父親としては僕のほうが|先輩《せんぱい》だな」 「おい待て、お前さんいつ父親に……」  どっぷり父親モードに突入したヴォルフラムは、他人の|戸惑《とまど》いも気にしやしない。たとえ相手が|顎《あご》の割れてる男でも、|愛娘《まなむすめ》のことをひけらかすことができればそれでいいのだ。 「うーん、五歳ならまだまだ子供だな。グレタが五歳の|頃《ころ》なんか、ぬいぐるみがなければ|寝《ね》られなかったと想像してるぞ、僕は。特製の|玩具《おもちゃ》なんか|貰《もら》うと、すごく喜びそうだな。黄色いアヒルとか|与《あた》えてみるのはどうだろう」 「アヒ……」  下半身を|筆巻《すま》きにされたまま、人魚のポーズで「おとぉさま?」と呼び|掛《か》けるマキシーンに、黄色いアヒルなど通用するだろうか。いっそヴォルフラムを部屋に|引摺《ひきず》って行き、思う存分「おとぉさま|地獄《じごく》」を体験させてやりたい。 「こうなったら一か八か|催眠《さいみん》法術で、毒の中和を|図《はか》ってみるか」 「催眠法術?」  |既成《きせい》の単語に一文字足しただけのような用語に、ヴォルフラムは反応した。船酔いの解消に効果がありそうな|響《ひび》きだ。 「前々から不思議に思っていたんだが、神族でも人間でもないお前が、どうやって法術を|会得《えとく》したんだ?」  グランツの元若|旦那《だんな》は青い|瞳《ひとみ》を|眇《すが》め、そんなこと聞いてどうすると|怪語《けげん》そうな顔をした。 「口で言うほど簡単じゃないぜ。そりゃもう、顎が割れるくらい訓練を積んだんだ」 「顎が!? それは生まれた時から割れてるんじゃないのか!?」  え。これだから箱入り美少年は困る。笑えない|冗談《じょうだん》を|失笑《しっしょう》するどころか、真に受けてびっくりしてしまう。 「生まれた時からって、そいつぁ誤解もいいとこだ。だったらお前の長兄は、生まれた時から|眉間《みけん》に|皺《しわ》が寄ってたのか?」 「いやそれは、寄ってなかっただろうけど」  顎と皺では|微妙《びみょう》に|違《ちが》う。 「第一、顎の割れてる赤ん|坊《ぼう》なんかいるか? 見たことあるか?」 「ない……気がする」 「だろう。よーく覚えておけ、顎も腹筋同様、|鍛《きた》えれば鍛えるほど割れてくるんだよ。使い込めば使い込むほど熟練するんだ」 「割れ顎の熟練か」  ヴォルフラムは、|悔《くや》しいが勉強になったと|頷《うなず》いている。ここを父親学級か何かと|勘違《かんちが》いして、娘を持つ親に悪人はいないと信じているのだろう。一刻も早く父親モードから覚めて、いつもの彼に|戻《もど》らないと危険だ。  しかし彼等はこの|恥《は》ずかしい会話が、った。全世界の骨一族に向けて|中継《ちゅうけい》されていたのを知らなかった。  一方その頃|血盟城《けつめいじょう》では、グウェンダル、アニシナ、グレタの大中小三人組が「組み組み骨っちょ」の|一片《いっぺん》に|巨大汁碗《きょだいしるわん》状の機材を|繋《つな》ぎ、聞こえてくる通信を|固唾《かたず》を|呑《の》んで聞いていた。  どうでもいいような内容だったが。 「どうです、この『ビリビリイエスイエス電波受信中』略して『びいえすくん』の性能は。これさえあれば骨通信から出合え系|決闘中継《けっとうちゅうけい》まで、どんな音でも拾えます。んー? あらあら」  アニシナは切り|揃《そろ》えられた|綺麗《きれい》な|爪《つめ》で、びいえすくんの|縁《ふち》を|辿《たど》った。 「ヴォルフラムが筋肉に|騙《だま》されていますよ」  長兄は長い指で頭を|抱《かか》えて|眩《つぶや》いた。 「弟よ……」  グレタが膝の上から|精一杯《せいいっぱい》手を|伸《の》ばし、グウェンダルの頭を|撫《な》でてやる。 「よしよし、グウェン。泣かないでー。きたえたからってアゴが割れるわけないよねえ、なのグレタだって知ってるよ。生まれついての毒女がいないのとおんなじしくみだもん」 「フォンウィンコット|卿《きょう》は生まれついての毒女といえるかもしれませんね」  アニシナの何気ない一言に、毒女に|恋《こい》する五秒前の少女は色めき立った。 「え、それだーれ? グレタそのひとの|弟子《でし》になるべき!?」 「グレタはまず、年女になってからお考えなさい」 「えー」  グレタは不満げな声をあげた。眞魔国の干支《えと》は動物が五百七十七種類だ。生きている内に年女になれる確率はそう高くない。 「でもヴォルフはそういう単純でおマヌケなところが、ちゃーむぽいんとなんだって言ってたよ」 「おやグレタ、そんな|褒《ほ》め言葉をヴォルフラムに聞かせたら、きっと嬉しさのあまり|舞《ま》い上がってしまいますよ。陛下も|隅《すみ》に置けませんね。|叱《しか》るときは叱り、褒めるときはきちんと褒める、よい|躾《しつけ》っぷりです」 「言ってたのユーリじゃないよー?」 「では|誰《がれ》です?」 「ぎーぜらー!」  大人しく落ち込んでいたグウェンダルが、文字では表現できない悲痛な|叫《さけ》びを発した。 「あら、あの|屈強《くっきょう》な男どもを|操《あやつ》ることにのみ|悦《よろこ》びを見いだす|軍曹殿《ぐんそをどの》が、ついに年下の男の子も照準に入れたのですか。まあ|恐《おそ》ろしい、まあ楽しみ。おは、おは、おははははは」  ああ弟よ、きみを泣く。  いずれの世界でも、兄は|苦悩《くのう》していた。  処刑者《しょけいしゃ》リストの最後には、確かに神族らしからぬ響きの名前が載《の》せられていた。  ジェイソンとフレディ。  例によって鳥の羽ばたきみたいな文字は読めなかったし、|試《ため》しに指で辿ってみても|無駄《むだ》だったが、一番下に書かれた二行を見た|途端《とたん》に、泣きじゃくりたいような|衝動《しょうどう》が込み上げてきた。  |捜《さが》してたんだ、きみたち二人を。もうずっと。  |他《ほか》の三人はいずれも外海帰りの男達で、首都近くの施設に|隔離《かくり》されている人物だった。ヘイゼルは、いやベネラはその名前を聞いただけで誰だか|判《わか》ったらしい。額に|拳《こぶし》を当ててぎゅっと目を閉じた。  にも|拘《かかわ》らず|同胞《どうほう》の救出に関して彼女達は非常に|慎重《しんちょう》で、|生贄《いけにえ》のために危険を|冒《おか》すかどうかの結論は、夜のうちには出なかった。胸の痛みを感じる|程《ほど》、近しい知り合いだったのに。 「彼等だって|覚悟《かくご》はできている」それがベネラとしての主張だ。祖国を捨て、別天地を求めて船で|漕《こ》ぎ出すと決めた時に、心の準備はしてあるというのだ。失敗したらどんな運命が待ち受けているか、成功の確率はどれ程か、それを知った上で|皆《みな》旅立つのだと。 「|生憎《あいにく》ジェイソンとフレディには、教えてくれる人が誰もいなかった」  そう、あの二人はおれという未熟な|奴《やつ》の手しか借りられなかったために、自分達の行く末を想像できなかったのだ。 「覚悟しておけなんて誰も言えなかった。知らなかったんだから。それどころか生まれ故郷に帰れば幸せな未来が待ってるなんて思い込ませて、聖砂国に送り届けた。|殆《ほとん》ど|詐欺《さぎ》だ、騙したも同然さ!」 「言いたいことは理解できるよ、陛下」 「だったら!」 「だからといってあたしたちが、今回だけは例外とカウントする理由にはならない」  ヘイゼルはどこまでも冷静だった。 「|畜生《ちくしょう》ッ! ああご婦人の前で|汚《きたな》い言葉を使ってすみませんね、畜生ッ!」  おれは|貰《もら》った飲み物のカップを|丁寧《ていねい》に|床《ゆか》に戻してから、|壁《かべ》を|叩《たた》いて部屋を後にした。追われているところを助けられ|匿《かくま》ってもらい、食事まで|頂戴《ちょうだい》しておきながらこの非礼だ。|逃《に》げてきた通路の壁には所々に火が|点《とも》されていて、|辛《かろ》うじて|松明《たいまつ》を持たなくても歩ける。  ヨザックと、それに多分コンラッドも|一緒《いっしょ》だ。  |狭《せま》い道を来た方向と反対に進むと、数分歩いただけで壁の明かりは|途切《とぎ》れた。|闇《やみ》に迷い込まないよう、火のない場所には絶対に足を|踏《ふ》み入れない。  おれは|暗闇《くらやみ》と人の世界の境界線を|跨《また》ぎ、石と土の交ざり合った壁に寄り|掛《か》かった。|右脚《みぎあし》は闇、左脚はこの世にある。  言葉もなく、|唸《うな》り声ばかりの状態に|焦《じ》れて、ヨザックが事も無げに言う。 「どうせおやりになるんでしょ?」  朝練に参加するか|訊《き》くみたいな調子で。 「ま、五人くらいなら不意打ちで何とかなるかもねー。二人だったらもっと簡単だけど」 「でもこっちは」  |一旦《いったん》言葉を切って、|薄《うす》明かりで二人の顔を|眺《なが》める。数に入れていいんだよなコンラッド。もしこれがおれの予想どおりサラレギーの|入《いれ》知恵《ぢえ》だとしたら、大シマロン政府だって|阻止《そし》を命じるはずだ。 「三人だぜ? しかも一人はおれ。長打力、|戦闘《せんとう》能力共にゼロ……内野ゴロが精々だ。くそー、ヘッドスライディングすれば内野安打になるかな」  本当は全速力で|駆《か》け|抜《ぬ》ける方が早い。 「陛下に危険なことはさせられませんよ」  コンラッドが|溜息《ためいき》混じりに言った。久し|振《ぶ》りに見る、こうなると思ったという顔だ。 「だからといって御自分でされるというのを、止める権利もありませんけど……。人手に関しては、まあどこの国にも金で動く連中はいるはずです。うまく使えばそれなりの戦力にはなるでしょう。ああご心配なく」  眞魔国組の、おれたちお金無いよポーズに気付いて、ウェラー卿は|懐《ふところ》を叩いた。 「公費がでてますから」 「大シマロンてお金持ちねー|坊《ぼっ》ちゃん」 「ねー、グリ江ちゃん」  顔を見合わせ、|戯《ふざ》けるおれとグリ江ちゃん。 「問題は言葉の壁です」  実は英語ペラペラだった身を|以《もっ》てしても、聖砂国語は理解不能だ。つまりおれの|魂《たましい》は、神族として生きた経験がないらしい。もっとも|魔族《まぞく》の唱える|輪廻《りんね》転生リサイクルリストに、神族が加盟しているかどうかは不明だが。 「参加!」  急に声を掛けられて|振《ふ》り向くと、厚底|眼鏡《めがね》の通詞氏が|頬《ほお》を紅潮させて立っていた。|白徽《しろかび》状の|顎髭《あごひげ》が、興奮のためか逆立っている。 「参加を。ひとり、|従兄弟《いとこ》」 「あの中に従兄弟がいるの? そりゃ気が気じゃないよな。アチラさんは……ああ、お|祖父《じい》さんお|祖母《ばあ》さんがこっちのクラスの人なんだっけ」  とにかくこれで言葉の心配はなくなった、|凄腕《すごうで》二人がいるとはいえ、相手の数を考えたら非力なチームだ。だからといってフレディとジェイソンを見殺しになど絶対にできない。 「その代わり、不可能だと判断したら|即座《そくざ》に中止します。そこだけはご理解下さい」 「いいよ。でもきっと不可能じゃない」  いつもどおり、|根拠《こんきょ》のない自信だ。|腕《うで》を首の後ろに回し、|遣《や》り取りを|面白《おもしろ》そうに見ていたヨザックが、今にも頭をぶつけそうな|天井《てんじょう》を見上げた。もちろん星はない。 「あーあ、雨天中止になんないですかねー」  せめて順延だったら、作戦を練る|暇《ひま》もあったのに。  翌日は|生憎《あいにく》の晴天だった。  当地で生活しているアチラが、こんなに晴れるのは|珍《めずら》しいと感心するくらいに雲もなく、寒空に白っぽい太陽が高い。風は冷たく頬を|刺《さ》すが、降り注ぐ光は冬にしては暖かい。そういえばこの国は現在冬だが、春の|訪《おとず》れはあるのだろうか。  首都を歩く限りでは、民衆の格差や|奴隷《どれい》制度などまるで感じない。美しい街並みと、満たされた表情の市民達。同じ色、同じ造りに統一された建築物と、|髪《かみ》も|瞳《ひとみ》も、おおよその服の色まで同じ人々。  |賑《にぎ》わう商店、|微笑《ほほえ》み、|挨拶《あいさつ》し合う顔見知りたち。寄り|添《そ》って歩く若い男女、|気遣《きづか》い合って歩く老夫婦、真ん中に子供を|挟《はさ》んだ幸福そうな家族。  |完璧《かんぺき》だ。  何もかもが完璧過ぎて、ひょっとしておれは|騙《だま》されているんじゃないかと不安になる。聖砂国で奴隷階級が|虐《しいた》げられているなんてのは|捏造《ねつぞう》された|虚辞《きょじ》で、真実は目の前にあるとおり、誰もが幸福に暮らす平和な土地なのではないかと。金色の|洪水《こうずい》に|目眩《めまい》がした。  だがそんな想像はすぐに|掻《か》き消された。細い通りから転がり出てきた子供が、美しく|装《よそお》った女性の|脚《あし》にぶつかったのだ。それから|僅《わず》か三分弱の間に見せつけられた光景は、楽園にあってはならないものだった。  |汚《よご》れた服を|纏《まと》った子供は、|薄暗《うすぐら》い路地に逃げ帰った。  血を流しながら。  おれもコンラッドもヨザックも、彼が無事に逃げおおせるよう|祈《いの》り、胸の内で何度も謝りながら見守った。  明らかに|異端《いたん》であるおれは、髪と瞳を|隠《かく》すためにフードを|目深《まぶか》に|被《かぶ》り、|俯《うつむ》き|加減《かげん》で人混みに|紛《まぎ》れている。白と金ばかりの土地ではただでさえ目立つのに、下手に動いてこれ以上人目を|惹《ひ》くわけにはいかない。  こんな|恰好《かっこう》をしているのは、ほんの|一握《ひとにぎ》りの異国人だけだ。とはいえ、少数ながら出島から先まで足を延ばす商人もいてくれたお|陰《かげ》で、雪の中の|碁石《ごいし》状態にはならずに済んだ。  おれの|動揺《どうよう》をよそに、街は何事もなかったかのように元に|戻《もど》った。皆、慣れているのだろう。日常的に起こっている、ごく当たり前の出来事だという|証拠《しょうこ》だ。こんな|些細《ささい》な事件で息を|呑《の》み、|喉《のど》を|渇《かわ》かしているのは自分だけなのかもしれない。 「まさかこの人混み、時間がきたら全員が|処刑《しょけい》見物に押し掛けるんじゃないだろうな……会場は|何処《どこ》だって?」 「中央広場です。見せしめですからね」  ヨザックの返事におれは舌打ちした。お|袋《ふくろ》がいたら品が悪いと耳を|弾《はじ》かれそうだ。 「そんな人目の多い所で……|趣味《しゅみ》が悪いぜ、イェルシー」  |欧州《おうしゅう》連合みたいな名前のくせに。あれはEUか。ヨザックが右頬を引き|攣《つ》らせた。笑いを|堪《こら》えているらしい。 「|今更《いまさら》何を|仰《おっしゃ》います坊ちゃん、ヴァン・ダー・ヴィーアじゃ大観衆の中心でモルギフ振り回した張本人が。あれだって|歴《れっき》とした公開処刑だったんですよ。しかもまさに本日と同様、子供相手の。観客大喜び、絶賛の|嵐《あらし》、興奮のあまり|逝《い》っちまったじーさんまでいたじゃないですか。それを見事に坊ちゃんがぶち|壊《こわ》しにしたんでしょう」 「そうでした。うわはー、おれに武器を持たせても、|猫《ねこ》の耳に小便ほども役に立たないと証明してしまった」  動物愛護協会に|睨《にら》まれそうな|間違《まちが》え方だ。本当は何だっけ、猫にごはん? 「|豚《ぶた》に|珍獣《ちんじゅう》もありそうだよな」  どんなに|空《から》元気をだしてみても、自分がどれだけ小心者でプレッシャーに弱いのか、|誰《だれ》よりもおれ自身が一番よく知っている。本当は不安と|焦燥感《しょうそうかん》で押し|潰《つぶ》されそうだ。失敗したらどうする? いや元々成功の見込みの|薄《うす》い作戦だ、けれどもしおれたちがしくじったら、あの二人は目の前で処刑されるのか? ジェイソンとフレディが殺されるのを、手を|拱《こまね》いて見ることになるのか?  |汚《きたな》い話だが、|冗談《じょうだん》でも言って気を紛らわせていないと、胸がむかついて胃の内容物をぶちまけそうだ。朝食抜きで助かった。物資不足の結果だが、世の中何が幸いするか|判《わか》らないものだ。  ウェラー卿《きょう》と通詞・アチラは少し前に、急募《きゅうぼ》した助っ人を配置に就《つ》かせるために離《はな》れていた。後の|叱責《しっせき》が|面倒《めんどう》だからか、ヨザックは借り物のマントの内でおれの|肘《ひじ》を|掴《つか》んでいる。|触《ふ》れていた指に力が加わり、熱がいっそう伝わった。 「|怒《おこ》ってますか」  |唐突《とうとつ》に彼が|訊《き》いてきた。顔は正面の|噴水《ふんすい》を向いたままだ。臨時処刑場と決められた中央広場は、|石畳《いしだたみ》の道を東へ二ブロックだ。|全《すべ》ての建物は正確な同心円上に配されているので、道案内も簡単だ。 「何を? なんだよ急に真顔になっちゃってグリ江ちゃん」 「オレのしたことを、怒ってます?」 「怒る理由がないだろ、もうずっと助けられてばっかりだ」 「そうじゃなくて」  プログラムされた時刻になったのか、|一際《ひときわ》高い石柱から四方に水が|噴《ふ》き出した。日射しを受けて小さな|虹《にじ》が|架《か》かる。真ん前に|陣《じん》取って待っていた女の子が、七色の|幻想《げんそう》に喜んで手を|叩《たた》いた。でもきみはこれから、人の死を知ることになるんだよ。おれは|呟《つぶや》いた。親が良識派で、時間までに帰宅させてくれるのを願うばかりだ。  お庭番は|水飛沫《みずしぶき》に目を|遣《や》ったまま、やっと|注釈《ちゅうしゃく》を入れてくれた。 「ヴァン・ダー・ヴィーアでのことです。オレの態度とか、行動とかです」 「ああ、最初は結構|辛辣《しんらつ》だったっけ」  もう何年も前のように感じるが、実際にはそう月日は過ぎていない。地球時間では約半年という短さだ。その|頃《ころ》からおれたちはシマロン|絡《がら》みで、世界中を行ったり来たりしているのだ。 「まああれは仕方ないさ。おれも信用なかったし。こんなガキがいきなり王様デースって現れたって、あっさり信じられるものじゃないよな」  実のところ現在だって大して変わってはいない。成長株ではなくて済まないという気持ちでいっぱいだ。おれの後ろめたさを知ってか知らずか、お庭番は|硬《かた》い口調で続ける。 「それでもあれは主君への態度じゃなかった。ご存知ないかもしれませんが、オレはシマロンの活字が読めたし、どんな|儀式《ぎしき》が|催《もよお》されるかにも|詳《くわ》しかった。なのに陛下を|闘技場《とうぎじょう》に送り込んだんですよ。騙したも同然でしょう」  そうだったのか! 全然、まったく、さっぱりぽんと気付かなかったけど、バレるのも|恥《は》ずかしいから|黙《だま》って|頷《うなず》いておこう。 「本来なら打ち首もんだ。|魔族《まぞく》の処刑じゃ首は落としませんけどね。今思うと恥ずかしくて|身悶《みもだ》えしちまいますよ。ホントに……ほんとに申し訳ない」 「恥ずかしさ具合では引き分けってとこか」  |束《つか》の間の|幻想《げんそう》を見せてくれた噴水が終わり、石柱からは弱い水流が|溢《あふ》れるだけになった。女の子は母親と手を|繋《つな》いで、石畳を東へと歩き始める。ああ、やっぱり。 「初対面の印象はどうでもね」  人波の流れが|徐々《じょじょ》に東に向かっている。 「今は今だから。|頼《たよ》りにしてるから。特に今回のミッションでは、小シマロンからずっと頼りにしっぱなしだから」  それに気付いていながらも、おれたちは二人ともまだ噴水の前に|佇《たたず》んでいた。 「だから今更そんなこと明かさなくていいよ、ていうか|寧《むし》ろ言われても困るって。あっ、それともおれの気を紛らわせようとして、わざと|優《やさ》しい言葉を|掛《か》けてくれてんの?」  ありがとな、グリ江ちゃん。おれは彼の立派な|上腕《じょうわん》二頭筋を叩いた。布の上からでも|羨《うらや》ましいような張りで、中身の|詰《つ》まった良い音がする。  うん、肉体も満点だ。 「|親父《おやじ》がよく頭|抱《やか》えてるやつ、ほらあれだキンムヒョウテイ? それ提出するのがおれだったら、あんたは今やオールAだよ。急に昔のことなんか反省しなくても|大丈夫《だいじょうぶ》。あ、それともグウェンダルに説教でも|喰《く》らわされたのか? だったらおれが話を付けておくから」 「いーやあの人はできた上司ですから、オレを落ち込ませるようなこたぁ言わないです」 「じゃあコンラッドに……?」 「あんな裏切り者にどうこう言われる筋合いはないね。あ、やだわ|坊《ぼっ》ちゃん、そんな困ったような顔しないでぇ、グリ江も困っちゃう」  |普段《ふだん》はごく自然にチェンジするオネエ様口調だが、今のはあからさまな照れ隠しだ。彼が照れるなんて|珍《めずら》しい。急転直下、これから|雷雨《らいう》にでも|見舞《みま》われるのだろうか。 「ただ謝りたかっただけなんです。ちゃんと言っておかなくちゃと思って」  そう言うとヨザックは|妙《みょう》に晴れ晴れとした表情で、噴水から目を|離《はな》しておれを見た。 「よかった、これで気が済んだ」 「気が済んだって、ヨザック」  灰色のフードの下から、オレンジの|前髪《まえがみ》と半ば|隠《かく》れた青い|眼《め》が|覗《のぞ》いている。有り得ないと|一生懸命《いっしょうけんめい》言い聞かせつつも、ほんの|僅《わず》かな不安を口にした。 「どっか行っちゃったり、しないよな」 「どこかって何処へ。元々オレは国外任務が多いですからね、ずっとお|側《そば》にいるってわけにもまいりませんが」 「そうじゃなくて」  現実になるのが|恐《おそ》ろしくて、その先は言葉にできない。彼までも目の前から消えてしまったら、もう誰の名前を呼べばいいのか。 「……そうじゃなくてさ……いや」  |握《にぎ》った|拳《こぶし》で|瞼《まぶた》を|擦《こす》った。 「何でもないよ」 「変な坊ちゃんー」  ヨザックはおれの肘から手を離し、背中を反らすようにしてケラケラと笑った。いつもの彼らしく、陽気に。|腰《こし》じゃなくて後ろに|剣《けん》背負ってると、|抜《ぬ》きにくいのよねえとかぼやきながら。  時を告げる楽器が鳴り|響《ひび》き、それまでゆっくりと歩いていた人々が、|一斉《いっせい》に早足で東へと向かい始めた。行き先は二ブロック先の広場だ。今日は特別な|催《もよお》しがあるから、|見逃《みのが》すわけにいかない。おれの目には神族の市民達が、|皆《みな》そう|囁《ささや》き合っているように映る。 「あれ、ちゃんと持ちました?」  小声で|訊《き》かれて|頷《うなず》き、|確認《かくにん》するように|汗《あせ》ばんだ手をぎゅっと握り|締《し》めた。指の間には使い古した紙と、それに包んだ粉の|感触《かんしょく》。  助けるから。  低く、|殆《ほとん》ど音にならないくらい低く|呟《つぶや》いた。  必ず助けるから。      6  |処刑《しょけい》の方法は地域や民族によって様々だ。  それを思い知らされたのは、|急拵《きゅうごしら》えの木製の|舞台《ぶたい》上で、今にも人生の終わりを|迎《むか》えようとしている男達が、|絞首台《こうしゅだい》を前にして財産|分与《ぶんよ》に関する遺言を|滔々《とうとう》と述べ始めたときだった。広場に収まりきらないくらい集まった観衆も、今着ている服の|行方《ゆくえ》とか|履《は》いているサンダルの落ち着き先とか、|古女房《ふるにょうぼう》と|再婚《さいこん》する権利なんて話を、当然のこととして聞いている。  近くに人間の商人がいて、彼の雇《やと》ったらしい通訳がこれまた懇切丁寧《こんせつていねい》に訳してくれるものだから、フレディとジェイソンを必死で|捜《さが》しているおれにまで、|脚《あし》の欠けたべッドの|譲《ゆず》り先なんかが聞こえてしまう。いやもう、ベッドは|誰《だれ》が持ってってもいいから。おかみさんは年下の男と再婚してもいいから。  二人目の男は|声高《こわだか》に現政府への不満を|叫《さけ》び始めた。聖砂国市民であるお|隣《となり》の通訳は|勿論《もちろん》これを訳してはくれなかったが、舞台上の役人がすぐに男の口を|塞《ふさ》ぎ|猿轡《さるぐつわ》を|噛《か》ませたので、大方の予想がついた。ふと見回すと周囲の女性がみんな、|頬《ほお》を赤らめ顔を|顰《しか》めている。  ……あれ? もしかして下ネタでしたか?  三人目の|犠牲者《ぎせいしゃ》は|肝《きも》が|据《す》わっていた。  後ろ手に|縛《しば》られ、首に|縄《なわ》を掛けられてもなお、態度を変えることなく平然としている。人間でいえば四十過ぎの男性だが、|喉《のど》や|腕《うで》に骨の形が|浮《う》くくらい|痩《や》せていた。病んでいるのかもしれない。だからこそ死を目前にして平静を保っていられるのかも。  急場で拵えられたにしては舞台は|頑丈《がんじょう》で大きい。組み上げられた木材は人の身長よりも高く、下にいる観衆がどんなに手を|伸《の》ばしても、刑に処せられる者には届かない。広さも六|畳程《じょうほど》はあり、立場の異なる男が六人|載《の》っても|充分《じゅうぶん》に|余裕《よゆう》があった。  広場の|端《はし》、観衆の中でもより後方にポジションを構えたおれは、人々の頭を|避《さ》けて|爪先《つまさき》立ちになりながら、必死にジェイソンとフレディを探したのだが、舞台上のどこを見てもそれらしき|影《かげ》はない。首に縄を掛けられているのは三十代、四十代の男が三人だけで、|他《ほか》は制服姿の役人だ。 「いない」  これから引き出されるのかと運ばれてきた護送車も確認したが、屋根のない馬車は|既《すで》に空っぽだった。 「おかしい。どこにもいない」 「直前で取り|止《や》めになったとか?」  二人の顔を知っているヨザックも見つけられないようだ。真昼の|日射《ひざ》しが|辛《つら》いのか、目の上に片手を|翳《かざ》している。|見渡《みわた》す限り白に近い|金髪《きんぱつ》ばかりだ、|眩《まぶ》しいのも仕方がない。 「あの子達だけでも中止になったのなら……」  |嬉《うれ》しい、と言いかけて|慌《あわ》てた。なんて身勝手で|冷酷《れいこく》なことを考えてるんだ! |壇上《だんじょう》には今にも殺されそうな男が三人もいる。知り合いだけ助かればいいなんて、声に出して読んではいけない感想だ。考えるだけでも|顰蹙《ひんしゅく》。 「どうします坊ちゃん、作戦|変更《へんこう》?」  ヨザックの質問に|被《かぶ》さるように、壇上から聞き覚えのある曲が聞こえてきた。何も言い|遺《のこ》さなかった三人目の男が、|突然《とつぜん》歌い始めたのだ。王宮の前で星の印を|描《か》いた子供や、ヘイゼルが口ずさんでいたあの曲だ。痩せ細った肉体からは想像もできない声量だ。おれには詞の意味が理解できないが、声は広場の|隅々《すみずみ》まで響き|渡《わた》り、その場にいた観衆を|動揺《どうよう》させた。  ある者は不安げに顔を見合わせ、またある者は|隣人《りんじん》を疑いの目で|睨《にら》んだ。どんな歌詞が何故この市民達を|困惑《こんわく》させているのかは|判《わか》らない。それでも|理不尽《りふじん》に殺される|奴隷《どれい》の歌声は、見物人達の心を|惑《まど》わせた。 「変更するつもりはない。けど」  時間が|迫《せま》っている。ジェイソンとフレディを確認するまで待っていたら、他の三人を救えない。アチラさんと|親戚《しんせき》が、作戦の口火となる|騒動《そうどう》を起こす予定だった。 「急がないと……」 「|大丈夫《だいじょうぶ》、まだ|執行《しつこう》はされないよ。しっ! |振《ふ》り向かないで」 「ベネ……ヘイゼルさん?」  |肩口《かたぐち》で囁かれたのは英語だった。|抑《おさ》えた|喋《しゃべ》り方で|特徴《とくちょう》を消しても、地球人ならすぐに誰だか判る。 「|皇帝《こうてい》陛下がお姿を現すまでは始まらないんだ。奴隷でなく、市民が、民衆が陛下の|御《お》言葉を|戴《いただ》いて、それからさ。|袋《ふくろ》を被せて|吊《つる》す。原始的で確実な方法だ」  肩のすぐ|脇《わき》にベネラことヘイゼル・グレイブスの|白髪頭《しらがあたま》があった。|身体《からだ》は正面を向けたまま横目で見ると、昨夜とは全く異なる|綺麗《きれい》で奴隷達のリーダーではなく、|催事《さいじ》を見物に来た市民のような姿だ。彼女は人を|喰《く》った|笑《え》みを浮かべた。 「|怪《あや》しまれないように変装をね。ところで陛下はどうして|此処《ここ》にいるんだい、女の子達はいなかったんだろう?」 「あなたこそ、どうして此処に……今朝になって決定が|覆《くつがえ》ったとか?」 「朝方、ウェラー氏が説得に来たんだよ。手ぶらでね」  手ぶらで!? せっかく活動資金があるのに何故そんなことを。 「そして手を貸して欲しいと言ったのさ。金を積んで雇えばいいのに、わざわざ頭を下げに来たんだ。それを聞いた仲間達は、協力すると決めちゃってね。あの人は金持ちなんだから、|貰《もら》える物は貰っとくべきだと、あたしは主張したんだけどね」  |冗談《じょうだん》めかしてそう言って、ベネラは片目を|瞑《つぶ》った。ウィンクなんてどれだけされていないだろうと、最近になって急に|遡《さかのぼ》ってしまった記憶の扉を開きつつ思った。もしかしたら|親父《おやじ》の仕事で|渡米《とべい》していたとき以来かもしれない。彼女もどれだけ長い間していなかったろうか。でも|酷《ひど》く嬉しそうで、|沸《わ》き立つ心が伝わってくる。 「誤解しないで欲しい。同情したとかあんたたちの情熱に打たれたとか、子供が|含《ふく》まれているから見殺しにできなかったとか、そういうことじゃない。ただ|坊《ぼう》やの……陛下の話を聞いて、ジェイソンとフレディって子たちは後々使えると思ったから、こうして行動に移しただけだ。法術の使えない集団にとって、強い法力を持つ協力者はとても貴重だ。それに」  |目尻《めじり》の|皺《しわ》が深くなる。 「その他三人も、一応|可愛《かわい》い仲間達だしね」 「なーるほどー?」  おれは節を付けて|相槌《あいづち》を打った。本音を|隠《かく》したい気持ちは|解《わか》るが、|今更《いまさら》そんなに|冷徹《れいてつ》ぶらなくてもいいのに。 「じゃあ他にも|助《すけ》っ|人《と》が……」 「いいかい、そっちを向いちゃ|駄目《だめ》だよ。あの|露店商《ろてんしょう》のドーナツ売りも、キャンディ売りも砂糖|菓子《がし》娘もそうだ」 「な、なんで甘いもんばっかなんだろう」  突然、さっきの歌とは異なる動揺で群衆がどよめいた。|皆《みな》が顔を上げ、警備用の|柵《さく》で守られた専用道路を無数の|瞳《ひとみ》が|見詰《みつ》める。|拳《こぶし》を|握《にぎ》って叫ぶための準備をし、|退屈《たいくつ》そうにしている者は一人としていない。期待、|憧憬《しょうけい》、|歓喜《かんき》、その|類《たぐい》の興奮だ。 「お出ましだ」  ヘイゼルの声にもある種の期待がこもっていた。|但《ただ》しこちらは|憧《あこが》れや親愛は感じない。試合を前に神経が高ぶるようなものだ。  金ピカ馬車で現れるというおれの予想は、もっと|凄《すご》い形で裏切られた。聖砂国の若き皇帝は、可動専用シートで入場してきたのだ。つまり居ながらにしてそこが特等席というわけ。伝統文化的に呼べば祭りの|山車《だし》、ファンタジックに言えば海の近くの王国でパレードしている車だ。花と金とで美しく|飾《かざ》り立てられた二階部分に、少年皇帝はいた。|焦《じ》れったいほど|優雅《ゆうが》に右手を振っている。 「……|流石《さすが》だ、おれなんかとは格が|違《ちが》う」  ユビノマタコールで|聴覚《ちょうかく》が変になりながらも、おれは|妙《みょう》な点で感心した。二階建ての山車の|天辺《てっぺん》で落ち着けるなんて、|並大抵《なみたいてい》の神経ではない。  二・○の視力を|以《もっ》てしても遠すぎてはっきりとは見えないが、今日のイェルシーは|髪《かみ》を後ろでまとめ、|淡《あわ》いグリーンの|衣装《いしょう》に|鮮《あざ》やかな黄色のベルトをしているようだ。|熱狂《ねっきょう》する市民に手を振り何事か言葉を|掛《か》け、|朗《ほが》らかに|応《こた》えている。昨日会った時とは多少イメージが違うようだが、公務での顔と私室での顔を使い分けているのかもしれない。  両脇に警護の男が一人ずつ|控《ひか》え、そして皇帝の座る|椅子《いす》の背後には、どこからどう見ても怪しい、大きな|荷袋《にぶくろ》が置かれていた。成長|途中《とちゅう》の子供なら、二人くらい余裕で詰め込めるサイズだ。そいつが不意に動いた気がして、おれはぎょっとして|瞬《またた》きを|繰《く》り返した。目の|錯覚《さっかく》か、それとも山車が動いた|震動《しんどう》で、袋が自然に|揺《ゆ》れたのか。  |両眼《りょうめ》を|擦《こす》って見直してみる。なんだ気のせい……いや、また動いた! 「くそっ、こんな時こそ眞魔国野鳥の会|推奨《すいしょう》・|魔動《まどう》遠眼鏡『のぞ見ちゃん』があれば!」 「必要なときに無いのが『女王様の着想』製品で、欲しいときにいないのがいい男よ|坊《ぼっ》ちゃん。男はそうやって|妥協《だきょう》や|諦《あきら》めってものを覚えていくのね。人これを、ま、いいかの法則と呼ぶ」 「全然よくねーよ。あっ」  荷袋の下から|一瞬《いっしゅん》だけ、白くて細い棒のようなものが|覗《のぞ》いた。|脚《あし》かもしれない。 「まさか、ジェイソンとフレディだけ何らかの理由で|遅《おく》れてて、あの袋に入れて運ばれてきたわけじゃあ……」 「可愛い女の子を袋詰めかい? イェルシーというよりそれは、先代のアラゾンが好みそうなやり方だね」  ア、ラ、ゾ、ン? 「女帝の名だよ、イェルシーの母親。|据《す》わりが悪いだろう? なーんか一文字違う気がして。けど名前に反して冷酷な|恐《おそ》ろしい女でね。アラゾンの統治中は仲間が酷い目に|遭《あ》わされた。|息子《むすこ》のほうが|即位《そくい》したときには、奴隷階級全員が感謝したくらいだ」  悪いランプの精にでも取り|憑《つ》かれているのだろうか。 「でもあの袋は確かに動いてる」  その時、|唐突《とうとつ》に作戦は始まった。  当初の計画どおり、広場の西側の出口付近で小規模な|爆発音《ばくはつおん》が起こった。これを口切りに、次々と爆発が続き、皇帝の登場に|沸《わ》いていた民衆はパニックを起こして|逃《に》げ場を探す。その混乱に乗じて処刑台《しょけいだい》に近付き、囚《とら》われの奴隷を解放しようという算段だ。単純で捻《ひね》りのない方法だが、変に|凝《こ》るより成功の確率も高い。  ヘイゼルも身体を低くして|駆《か》けだしていた。|恐怖《きょうふ》を倍増させるのに一役買うべく、おれとヨザックもポケットにあった|爆竹《ばくちく》にそっと火を|点《つ》け、植え込みの中に投げ入れた。 「どうしようヨザック! 皇帝陛下の後ろの荷物が……」 「フレジェイだったら?」  直接的過ぎる部下の言葉に|頷《うなず》きながら、この先の自分の役割を念のために|訊《たず》ねた。身体は|既《すで》に走る準備にかかっている。 「この先のおれの仕事って何だっけ?」 「ここでじっとしている」 「だよな、やっぱり。じゃあじっとしてたことにしといて!」  コンラッドが、ヘイゼルが、他の皆が気の毒な三人を救出しているうちに行くだけ行ってみて、こっそり様子を|窺《うかが》えばいい。袋の中身がジェイソンとフレディでなかったら、作戦|終了《しゅうりょう》までに元の場所に|戻《もど》っていれば良いだけの話だ。 「んもうー、坊ちゃんたら。後で|一緒《いっしょ》にウェラー|卿《きょう》の小言喰らってくださいよ」  人の流れに逆らって、正面脇に|停《と》められた山車まで|辿《たど》り着くのは一苦労だった。ちらりと視線を向けると、|奴隷《どれい》階級というよりは明らかに市民に近い服装の男が役人と兵士を|殴《なぐ》り、|囚人《しゅうじん》の首から|縄《なわ》を外していた。順調に進行しているようだ。  騒動から皇帝を守る義務があるにも|拘《かかわ》らず、イェルシーの特等席には|先程《さきほど》の半数くらいしか警備がついていなかった。予想外の|襲撃《しゅうげき》に、処刑者側に人員を|割《さ》いているのだろう。お前等、囚人を|奪《うば》われるのと陛下に危険人物が|忍《しの》び寄るのとどっちが大事件よと、|花壇《かだん》の中を|形振《なりふ》り|構《かま》わず|這《は》いながら心|密《ひそ》かに思った。  |壁際《かべぎわ》の裏手に回ってしまえば、山車にしがみつくのはそう難しくもなかった。問題はその先だ。|蛙《かえる》みたいに登り始める。飾りが多いのは幸いだった、|全《すべ》て足掛かりになるからだ。それでも少しだけ、あの赤いスーツの節足動物ヒーローだったら良かったのにと考えた。手から糸が出ればどんなに楽だろう。  二階部分に辿り着くと、おれは|見咎《みとが》められないように|慎重《しんちょう》に、目の高さまでをそっと覗かせた。警護の兵士の脚と、その手前に例の荷袋がある。  目を凝らすと袋はやっぱり動いていた。但し遠くから見えるほど|大袈裟《おおげさ》にではなく、今は細かく|震《ふる》える程度に。布の|隙間《すきま》から細く白い足首も見える。 「……人だ。やっぱり見間違いじゃなかったんだ」 「大きな|子猫《こねこ》ちゃん|満載《まんさい》の福袋ってわけでもなかったんですね」  それもどうだろう。  お庭番はおれと違って、次の行動に迷ったりしなかった。  音も立てずに二階に飛び移り、警護の兵士に当て身を|喰《く》らわす。|抜《ぬ》きにくいだの何だのぶつぶつ言っていた|剣《けん》の|柄《つか》で。  そして|一拍《いっぱく》も|無駄《むだ》な動きをせずに、灰色の荷を袋ごと|掴《つか》み、掛け声と共に|担《かつ》ぎ上げた。  その時になってやっと|皇帝《こうてい》陛下が、|曲者《くせもの》の|侵入《しんにゅう》に助けを呼ぼうと椅子から立つ。おれも|慌《あわ》てて特等席によじ登った。両手が|塞《ふさ》がっているヨザックの代わりに、イェルシーをどうにかしなくてはならない。  口を押さえるとか、|拘束《こうそく》するとか。しまった、|粘着《ねんちゃく》テープの持ち合わせがない。  ところがイェルシーは|叫《さけ》ぶどころか、フードを|目深《まぶか》に|被《かぶ》ったおれを|怪《あや》しみもせずに言った。 「やあ、ユーリ」  |薔薇《ばら》の|蕾《つぼみ》が綻《ほころ》ぶように笑って、淡いグリーンの|袖《そで》で口元を押さえた。 「やっぱり来たね。必ず戻ってくると思っていたんだ」  背筋を冷たい|汗《あせ》が流れた。  この顔、この声、強い黄金の瞳の色、服も何もかも皆そっくりだが、彼は……。 「まさか」  おれは|掠《かす》れる声を|振《ふ》り|絞《しぼ》った。彼はイェルシーではない。 「サラレギー、なのか?」  若き聖砂国皇帝イェルシーが、こんなに|流暢《りゅうちょう》に共通語を話すわけがない。      7  彼等兄弟と|揉《も》めてから、まだ丸一日も|経《た》っていない。  一緒に旅をしてきたサラレギーと聖砂国で我々を待ち受けていたイェルシーが兄弟だと知り、あまつさえその|陰謀《いんぼう》に巻き込まれ、国の命運を握る書状にサインを|迫《せま》られてから、まだ一昼夜も過ぎていないのだ。 「サラレギーなのか!? 入れ|替《か》わって……ええ!? 何でだよ、どうしてお前がこの国の皇帝の椅子に」  あのよく似合っていた眼鏡《めがね》さえなければ、元々彼等の違《ちが》いは髪《かみ》の長さと服くらいのものだ。あとはどちらかといえば弟のイェルシーのほうが、より人形めいてはいたが、そんなのは誤差の|範囲《はんい》だろう。|此処《ここ》にいるのは聖砂国皇帝イェルシーではなく、小シマロン王サラレギーだ。彼の演技力をもってすれば、余人を|欺《あざむ》くことなど|容易《たやす》かったに違いない。  |外《はず》せない石を|填《は》めたままの小指が|疹《うず》いた。  落ち着け、この法石を使いこなしていたのは弟のイェルシーだ、兄のサラレギーではない。サラは法術が使えないから、生まれた国を追われたんだ。だからこの痛みは、|惰弱《だじゃく》なおれの精神からくる錯覚のはず。 「大袈裟だね、ユーリ」  サラレギーは綺麗《きれい》な服の袖をひらつかせ、両手を広げた。そっくりだ。まったく、これだから神族ってやつは。 「単なるお遊びだよ、ユーリ。|双子《ふたご》なら一度は入れ替わってみたいよね。だってそれが同性の双子に生まれた味わいというものじゃない? 十年以上会っていなかったのだから、多少のお遊びは許されると思って」 「……人の処刑が遊びだって言うのか」 「される方は必死かもしれないけれど、見物する側にとっては|娯楽《ごらく》でしょう?」  だったらされる側に回ってみやがれ。  |憎《にく》らしいほど整った顔で|可愛《かわい》らしい|含《ふく》み笑いをしながら、|邪悪《じゃあく》な少年王は下界を|眺《なが》めた。 「王という身でありながら、わたしは処刑をじっくり見たことがなくて。だからイェルシーの提案を受け入れて、高みの見物を決め込もうとしていたんだ。弟は幼い|頃《ころ》から何度も立ち会っていて、もう|見飽《みあ》きたと言うからね。ああそこの、ウェラー卿ではない方のお供の人」  綺麗に|磨《みが》かれた桜貝みたいな|爪《つめ》を、彼はうちのお庭番に向けた。 「その袋は下ろしてやってくれるかな。中身は王宮の|女官《にょかん》見習いだから」 「なんだって!?」  地上の兵士に見咎められないように身を低くしていたヨザックは、おれの叫びより先に荷物を下ろし、布を|剥《は》いだ。中からは見知らぬ少女が二人現れる。髪と|眼《め》の色以外にはどこも似ているところはない。|姉妹《しまい》でさえないのだろう。 「|騙《だま》したのか」 「ええ? 何を言っているのユーリ、あなたの|捜《さが》し人が袋を被せられてここに置かれているって、|誰《だれ》かがあなたに教えたの? もしそうだとしたらとんでもない|偽《にせ》情報だ。気の毒に、あなたはその情報提供者に騙されたんだよ」  心から同情するような素振りで、サラレギーは整った|眉《まゆ》を|顰《ひそ》めた。誰もおれにそんな情報は伝えていない。例によって勝手な判断で|突《つ》っ走り、いつもどおりまた派手に転んだ、ただそれだけだ。  では本職のスパイ、協力者アチラの持ち込んだ情報はどうか。期日時刻とも正確に、|処刑《しょけい》は行われるところだった。真下の広場で繰り広げられているぶつかり合いがなければ、男達三人は確実に命を|断《た》たれていただろう。  けれどこの場所に、あの子達の姿はない。いないことを幸いだと喜ぶべきか。 「リストに……名前が……」 「ああ、神族にしては|珍《めずら》しい名前の子供だね!」  旅仲間だった少年王は、細い|頤《おとがい》の前で両手を打ち合わせた。 「此処にはいないよ。遠方の|施設《しせつ》にいるのだけれど、とても連れてくる時間はなかった」 「どういうことだ?」  サラレギーの|鈴《すず》を転がしたみたいな声に対して、押し殺したおれの口調はどんなに悪人じみていることか。事情を知らない人間が|傍《はた》から見れば、十中八九立場を読み違えるだろう。 「船の中で耳にした名前を書き加えたんだ。だってこうすれば、ユーリ、あなたは必ず戻ってくると思ったから」  それから彼は、大切な目的はあまり大きな声で話しては|駄目《だめ》だよとくすくす笑った。|愚《おろ》かな|獲物《えもの》が|罠《わな》にかかって、この上もなくご|機嫌《きげん》だ。 「ね、やっぱりあなたは帰ってきたでしょう?」  その白い|頬《ほお》を思い切り張り飛ばし、|怒鳴《どな》りつけてやりたい。あの子達は|何処《どこ》だと、|胸《むな》ぐらを掴んで|揺《ゆ》さぶりたい|衝動《しょうどう》をおれは必死で|抑《おさ》えていた。|殴《なぐ》る価値もないと何度も自分に言い聞かせた。 「引き上げましょう!」  だからヨザックの進言にもすぐに従おうとした。|瞬間《しゅんかん》的に眼下に目をやると、我先にと|逃《に》げる観衆に|紛《まぎ》れて、周囲に|溶《と》けこみそうな色の布を被った|囚人《しゅうじん》が、支えられて走るのが見えた。ヘイゼルとコンラッドの姿もある。ほんの一瞬でどうしてそこまで|確認《かくにん》できたのかは|判《わか》らない。  お庭番は返事を待たず、|腕《うで》を|掴《つか》んで|抱《かか》え上げかけた。自分で降りられると、それに抵抗しようとした時だ。視界の|端《はし》を白い筋が横切り、名前を呼びかけていたサラレギーの声が|途切《とぎ》れた。 「……ユー……」  リという音が出てこない。覚えのある|状況《じょうきょう》だ。見ないほうがいい、|厄介《やっかい》なことになる、絶対に見ないほうがいいと頭では理解しているのに、経験から学ぶのが苦手なおれは|我慢《がまん》できずに振り返ってしまった。  |淡《あわ》いグリーンの服の中央に、矢が突き立っている。  あの時と同じだ。ただ今回は標的が異様にはっきりしていた。おれの|身体《からだ》など掠めもしなかったのだ。身体中の血が|全《すべ》て地面に吸い込まれるような、|恐怖《きょうふ》の瞬間に|襲《おそ》われた。また目の前で人が|射《う》たれたのだ。おれのすぐ|隣《となり》で、原始的な武器に|射貫《いぬ》かれた。 「……ヴォルフ……」  違う。  ヴォルフラムじゃない。  強く頭を振り、フードの上から髪を掴んだ。しっかりしろ、渋谷有利。ヴォルフは此処にいない。撃たれることも傷つくこともない。|動揺《どうよう》するな、|狙《ねら》われたのはサラレギーだ。  当の|怪我《けが》人《にん》はよろめきこそしたものの、|両脚《りょうあし》を|踏《ふ》ん張り立ったままで、|気丈《きじょう》にも自らの手で矢を引き抜こうとしていた。うまくいかずに舌打ちをする。見た目よりもダメージは少ないようだ。おれは無意識に彼に飛び|掛《か》かり、|華奢《きゃしゃ》な身体を|床《ゆか》に押し|倒《たお》した。 「立つなよ、危ないだろッ!? 狙われてるんだぞ。ああ、無理に抜くな!」 「|何故《なぜ》? こんな|不愉快《ふゆかい》な物、身体に|触《ふ》れさせておくのは絶対にいやでしょう?」 「|無駄《むだ》に出血したら……」  聞く耳を持たず、サラレギーはおれを押し|退《の》けて細工物の矢を胸から引き抜いた。真っ白だ、血液は付着していない。彼の運の強さを見せつけられた気がする。 「陛下、そんなもん助けなくていいじゃないですか!」  やっぱり|伏《ふ》せていたヨザックに、足首をぎゅっと掴まれる。 「でも」  広場は周囲をぐるりと建物で囲まれている。どの窓から射られたにせよ、|狙撃者《そげきしゃ》を確認するのは不可能に近い。それどころか第二波の可能性もある。早くこの場を去らないと。 「でもこいつ、あの子達の居場所を知ってるんだ」  グリエは|忌々《いまいま》しげに、矢を|握《にぎ》り|締《し》めたままのサラレギーに視線を|遣《や》った。 「まったく……っ!」  それから|素早《すばや》く空の|荷袋《にぶくろ》を掴み、少年王の細い身体を|手荒《てあら》に突っ込んだ。 「ヨザック!?」  口を|捻《ひね》って|肩《かた》に|担《かつ》ぎ上げる。 「後でちゃんと証言してくださいよ、オレは反対しましたからねっ。さあ早く!」  |山車《だし》の|梯子《はしご》を降り様に|振《ふ》り返ると、昼下がりの中央広場には似付かわしくない重装備の小隊がこちらに向かって来ていた。しかしその|先鋒《せんぽう》に立つ兵士の顔が、この世のものではないように見えて、思わず梯子を掴み|損《そこ》ねる。 「……死体?」  ゾンビとかリビングデッドとか、呼び方は|幾《いく》つもある。しかし見た目は|皆《みな》同じ、|壊《こわ》れかけのレディオならぬ|腐《くさ》りかけの人体。そいつらが武器を持ち、|鎧《よろい》を|纏《まと》って進んでくる様は、ある意味非常に|剣《けん》と|魔法《まほう》のファンタジー世界っぽい光景だった。いや最近では、二十一世紀のロンドンあたりにも|出没《しゅつぼつ》しているか。 「死体だ、腐った死体が武装して動いてる!」 「まさか。|坊《ぼっ》ちゃんたら、|冗談《じょうだん》は男の|趣味《しゅみ》だけにしてくださいよ。そんなおぞましい生き物、眞魔国にだっていませんや」  骨はいるけどね。 「でも本当に……」 「でももマチョもありません、グリ|江《え》のために見なかったことにして!」 「そ、そうしよ」  最後の一段を終えて地面に足がつくと、おれはやっと大きく息をついた。今までろくに呼吸をしていなかったような気がする。合流地点へと走るために、肺いっぱいに酸素を吸い込むと、確かに|腐臭《ふしゅう》が混ざっている。  何かが起こっているのだ。  おれたちの知らないところで、何かが。      8  新しい荷物の中身を知った|途端《とたん》に、ウェラー|卿《きょう》は|唖然《あぜん》とした。|流石《さすが》の彼もここまでは予測していなかったらしい。 「聞くんじゃなかった……」  彼は|前髪《まえがみ》を|掻《か》き上げて、|剣腓砥《けんだこ》のある|掌《てのひら》で右眉の傷に触れた。初めて目にする「こんなことになろうとは」と言いたげな表情だ。 「ヨザック、お前がついていながら」  コンラッドに険しい顔で|睨《にら》まれて、ヨザックはわざとらしくおれの後ろに隠れた。 「約束でしょ坊ちゃん、ちゃんと弁解してくださいよぉ」 「うん、だからつまりそのーグリ江ちゃんじゃなくておれが」  最後まで聞かずにコンラッドは、|驚《おどろ》くべき行動に出た。彼は荷袋を必要なだけ開けると、サラレギーが声を発する間も|与《あた》えず|猿轡《さるぐつわ》を|噛《か》ませ、|先程《さきほど》まで|緩《ゆる》く捻ってあっただけの口の部分を、改めてぎゅっと|縛《しば》ったのだ。 「こ、コンラッド?」  常識派で人権派の彼からは信じられない暴挙だ。  キレちゃったのかとビビるおれに、コンラッドば得意の|爽《さわ》やか好青年風の|笑顔《えがお》で応えた。しかし|眼《め》が笑っていない。 「なかったことに」 「そういうわけにはいかないよ。おれがヨザックに|頼《たの》んだんだ。サラはジェイソンとフレディの居所を知ってるから」 「だからといって彼等に知られるわけにはいかないでしょう」  コンラッドはおれの肩|越《ご》しに、ベネラと仲間達に視線を走らせた。銀を散らした|虹彩《こうさい》が|僅《わず》かに|翳《かげ》る。 「イェルシーと区別が付かないし、|双子《ふたご》の兄が訪問していると知る者も少ない。それに何より彼女達の顔とこの場所を覚えられでもしたら、|迷惑《めいわく》がかかります」  彼の言うとおりだ。  以前の|皇帝《こうてい》が|壊滅《かいめつ》させたという地下都市の存在はイェルシーも知るところだろうが、活動者の名前や顔は、まだ当局に|洩《も》れていないはずだ。特に城内で働く協力者などは、サラに顔を見られれば|致命《ちめい》的だ。間者として二度と使えないばかりか、本人の身も危険に|曝《さら》される。  ヘイゼルの言葉を信じるならば、サラレギーを射たのは彼女の手の者ではないということだった。  そもそも多くの人々は、可動式特等席で現れるのはイェルシーだと思っていたのだ。では弓を向けられたのはサラレギーではなく、イェルシー皇帝陛下ということになる。これは|歴《れっき》とした暗殺|未遂《みすい》事件だ。  元々彼女と|抵抗者《ていこうしゃ》の仲間達は、武力での解決を望んではいない。皇帝が一人|崩御《ほうぎょ》したからといって、国家の体制が|大幅《おおはば》に変わるとは考え|難《がた》いからだ。それよりも自分達の|惨状《さんじょう》を広く世に知らしめて、国際社会の|介入《かいにゅう》を待つ方を選んだ。だがもしも仲間の内に|武闘派《ぶとうは》がいれば、楽園に|辿《たど》り着くかどうかも|判《わか》らない船を延々と送り続けたりはせずに、|奴隷《どれい》階級の人数に任せてもっと早く武装|蜂起《ほうき》していただろう。  |血生臭《ちなまぐさ》い話だが、農具だって時には|刃《やいば》にもなる。  ヘイゼルの説明は|至極《しごく》ごもっともで、信用に足るものだった。しかし彼女は回答の終わりに、|妙《みょう》に気になる一言を加えるのを忘れなかった。 「標的は兄と弟、どっちだったんだろうね」  おれにも判らない。  我々は昨夜教えられた地下通路の中程まで|戻《もど》り、追っ手を|撤《ま》いたのを|確認《かくにん》して、ようやく胸を|撫《な》で下ろしたところだった。|間一髪《かんいっぱつ》で危機を|逃《のが》れ、救出された三人は、仲間達に次々|抱《だ》き締められて、|涙《なみだ》を|隠《かく》すことなく喜び合っている。  けれどその中に、あの子達の姿はない。それでもおれたちは失望を頭から振り|払《はら》い、助かった人々を心から祝福した。力になれて良かった。  新たな火種を持ち込んでしまった気もするが。 「このまま必要な情報だけを聞きだして、|袋《ふくろ》ごとどこかに置いてくるしか……まったく」  燃えないゴミの|違法投棄《いほうとうき》みたいな|扱《あつか》いを提案しておきながら、彼はまた大きな|溜息《ためいき》をついた。 「まったく、一国の王を袋|詰《づ》めにして|拉致《らち》するなんて」  ギュンターなら|疾《と》うの昔に汁を飛ばして|喚《わめ》き立てていそうだ。続けるうちにコンラッドの口元は|次第《しだい》に|弛《ゆる》み、|喉《のど》の奥で押し殺すように笑い始める。 「だ、|大胆《だいたん》なことをするようになりましたね」 「笑うなよ、こっちは|真面目《まじめ》なんだぞ」 「失礼、それにしてもっ」  ついには|身体《からだ》を二つに折り、声を立てて笑った。それでも彼がこんな風に笑うのはどれだけ久し振りか判っていたから、ネタにして|貰《もら》えただけでもありがたい。 「ひでぇ。詰めたのはおれじゃないよ、グリ江ちゃんだぞ!?」 「あっまたそうやってグリ江に責任を|転嫁《てんか》するー。でもちょっといい気味でしょ、ね?」  お庭番は同意を求めて目を細めた。何しろサラレギーには、小シマロンを出てからこれまでの間に、あらゆるタイプの|酷《ひど》い目に|遭《あ》わされている。|箇条《かじょう》書きにしたらレポート用紙が足りないくらいだ。そもそもおれを聖砂国に連れてきたのだって、|大掛《おおが》かりな|誘拐《ゆうかい》みたいなものだ。報復という考え方は道徳に反するが、ちょっと格好良く横文字で表現してみたらどうだろう。  リベンジ。  |赦《ゆる》されそうな気がしてきたぞ。 「あの子達の|行方《ゆくえ》ですが」  |漸《ようや》く|衝動《しょうどう》の治まったコンラッドが、|爪先《つまさき》で袋をつつきながら切り出した。 「あの三人はジェイソンとフレディの名前さえ知りませんでした。三人とも首都から最も近い|施設《しせつ》に|隔離《かくり》されていて、|急遽《きゅうきょ》決まった|処刑《しょけい》のために連行されて来たようです。他の施設の収容者には|詳《くわ》しくないみたいですね。いずれも|劣悪《れつあく》な|環境下《かんきょうか》にあることだけは、容易に想像がつきますが。どんな|状況《じょうきょう》かは……とてもお教えできません」 「|嫌《いや》な話だな」  おれも爪先で袋を|弄《いじ》くりながら|頷《うなず》く。 「あんな幼い子達がそんな所にいるのかと思うだけで|辛《つら》いよ、胸が痛む。|歳《とし》なんかグレタと大して変わらないんだぜ。そりゃうちの子も……色々ありはしたけどさ」 「よーし、じゃあ弟の代わりにこいつをしばいておきます?」  ヨザックが袋を|蹴《け》り飛ばした。やり過ぎだ。 「よせよ、やり過ぎ。そんなんしたら|虐待《ぎゃくたい》になっちゃうって。小シマロンはともかく、聖砂国に関してはサラに責任ないんだから」  |幼馴染《おさななじ》みコンビは息の合ったタイミングで、また|呆気《あっけ》にとられた顔をする。 「あなたを二度も殺そうとした男ですよ」 「でも、おれを二度も殺し|損《そこ》ねた|奴《やつ》だよ?」  二度あることは三度あるのか、それとも三度目の正直となるのかは神のみぞ知る、だ。だが彼が二度も失敗してくれたお|陰《かげ》で、おれの|劣等《れっとう》感は半減した。幼い|頃《ころ》から英才教育を受け、|帝王学《ていおうがく》を身につけ、王になるために生まれてきたサラレギーが、あんなに|完璧《かんぺき》な少年王が、らの野球好き高校生を二度も仕留め損ねるなんて。  小シマロン王もそう大したものじゃない。そう思うようになったのだ。  何を転じて福となすかは、|禍《わざわい》に遭ってみるまで分からないものだ。 「フォンビーレフェルト卿の件だけは、許し難いけどな……やっぱ蹴っとこうか」  それはお兄ちゃんにお任せするとしよう。  城から逃れてきたおれたちには身を寄せる宿もなく、昨夜案内された赤い部屋で過ごすしかなかった。|奪還《だっかん》作戦で|疲《つか》れ切った体を休めるには、地下都市の地面は冷たく|硬《かた》過ぎたが、何せこちらは異国の地で|逃亡《とうぼう》の身。|雨露《あめつゆ》と寒さが|凌《しの》げる|乾《かわ》いた場所があるだけでも、人の情けに感謝しなければならない。  幸い地下は、夜風に曝される地上よりも暖かかった。それにここなら火を|焚《た》いても、兵士に|見替《みとが》められる|恐《おそ》れはない。ずっと|離《はな》れた通気|孔《こう》から僅かな|煙《けむり》ボ立ち上るだけだから。  |寝袋《ねぶくろ》とは名ばかりの毛布らしき|塊《かたまり》を借り受けて、おれたち三人は火を囲んで横になった。追っ手に見つかる可能性も低いので、夜通しの見張りも必要なかった。逃亡生活の皮切りとしては、|幸先《さいさき》のいいスタートだ。  |両脇《りょうわき》からの規則正しい寝息を聞き、コンラッドとヨザックが|眠《ねり》っているのを確かめてから、おれは二人を起こさないようにそっと|抜《ぬ》け出した。足音を|忍《しの》ばせて袋に近付く。中身も眠ってしまっているのか、びくりとも動かない。 「……サラレギー?」  用心深く袋の口を|解《ほど》く。これまた|随分《ずいぶん》ときつく|縛《しば》ったもんだ。 「悪いな、寒いだろ」  必要最低限の広さだけ開けて、|埃《ほこり》っぽい毛布を|突《つ》っ込んだ。幼い頃から王宮暮らしの彼が、こんな物で|我慢《がまん》できるとは思えないけれど。いっそ貴族や王族の教育プログラムに、体験学習として|庶民《しょみん》の暮らしを入れておくべきだ。一億総庶民である日本育ちのおれには、関係のない話だが。  ついでに|猿轡《さるぐつわ》も外してやる。ヘイゼルたちは日暮れと共にそれぞれの|住処《すみか》に戻って行ったから、|喋《しゃべ》ったところで荷物の|素性《すじょう》がばれる心配もない。それにこの部屋でどんなに|叫《さけ》んでも、地上までは届かないだろう。 「……っぷは、あー」 「しーっ静かに。二人が寝てる」  人差し指を口に当ててみせる。明かりを近付けてみると、|流石《さすが》に|疲弊《ひへい》した様子のサラレギーが|膝《ひざ》を|抱《かか》え、|胎児《たいじ》みたいに丸くなっていた。気の毒になり、袋を引き下ろして上半身を自由にしてやる。 「サラレギー」 「あなたの部下は酷いな」  少年王は身を起こし、細い手で|腰《こし》をさすった。 「強く蹴られた」 「そりゃ悪かった。でもおれたちがお前……きみに、良い感情なんか持ってるわけがない、|判《わか》ってるだろ?」 「でも、酷いな」  自分のことを|棚《たな》に上げてもう一度|繰《く》り返してから、|頬《ほお》に掛かった|後《おく》れ毛を白い指で|払《はら》う。まとめていた|髪《かみ》がかなり乱れていた。|眼鏡《めがね》は|要《い》らないのかと|訊《き》きかけてから、視力|矯正《きょうせい》のためではなかったのを思い出す。 「なるべく早く城に帰すよ、ていうかどっかお城の近くに放置してくるよ。|噴水《ふんすい》の真ん中にでもね。|大丈夫《だいじょうぶ》、すぐに発見してもらえるさ。|賓客《ひんきゃく》が行方不明になったんだ、それも|皇帝《こうてい》陛下の実の兄がね。|騒《さわ》ぎにならないはずがない。下手したらもう街中が|捜索《そうさく》隊でいっぱいかもしれないし」 「どうかな」  小シマロンの少年王は、|儚《はかな》い様子で首を|傾《かし》げた。彼の本質を知らない相手なら、今の所作で七割方は母性本能に目覚めてしまうだろう。男女間わず。 「だって、賓客といったって殺されかけたばかりの男だよ?」 「|誰《だれ》に|狙《ねら》われたかは判ってんのか」  彼が首を|振《ふ》るたびに、白にも近い|金髪《きんぱつ》が|頼《たよ》りなく|揺《ゆ》れる。 「さあ。この国でのわたしの知名度なんてたかが知れている。遠くから射るなんて不確実な方法でわざわざ殺そうとする相手なんて、想像もつかないな。国内の政敵なら、すぐに|幾人《いくにん》か挙げられるけれど」 「それもへこむ話だな……」  そう、サラレギーはつい先日、自分の名を|冠《かん》した軍港で命を狙われたばかりだ。よりによって腹心の部下であり、小シマロン王の忠実な飼い犬とまで|称《しょう》された男に。その時は彼のマントとフードを着けたヴォルフラムが、危うく犠牲になるところだった。あの瞬間を思い出しただけで|震《ふる》えが走る。 「ひょっとしたら、わたしを狙ったのではないかもしれないけれどね」 「え……」 「だってそうでしょう、ユーリ。|此処《ここ》はイェルシーの国であって、わたしの国ではない。広場で開かれる行事に現れるとしたら、皇帝である弟だ。ましてやわたしと彼が入れ|替《か》わっていたことなど、誰も知らないに等しい。しかもわたしたちは、見分けが付かないくらいそっくりだしね。わたしとこんなに親しいあなただって、言葉を|交《か》わすまでは判らなかったでしょう?」 「う、親しいって」  言葉に|詰《つ》まった。サラレギーの辞書では、殺し合ったり|憎《にく》まれたりの関係を「親しい」というのか。理解できない|広辞苑《こうじえん》だ。  しかし彼自身も、自分は弟の身代わりになったのかもしれないと気付いてはいたのだ。常に自分中心主義のサラレギーだから、そんな可能性など|微塵《みじん》も考えないかと思っていた。 「ああ見えてイェルシーも敵が多いようだし……当たり前だよね、一国の、それも広大な土地と|民《たみ》を持つ国の|主《あるじ》なのだから、|慕《した》う友もいれば|疎《うと》ましく思う敵もいる。ユーリ、あなただってそうでしょう?」 「え? や、どうっ、かなー。そうっ、かもなー」  |突然《とつぜん》話を振られて口ごもる。多くの場合サラレギーは、王様同士という前提の|下《もと》に話そうとする。けれど彼とおれとでは立場が異なりすぎて、素直に|頷《うなず》けないケースが|殆《ほとん》どだ。政敵に関する危機感も、恐らく必要なことなのだろうが、現在のおれにはピンとこない。  |寧《むし》ろおれにとっての危険人物といえば、大小シマロンとその国主達なのだ。  そして今まさに「危険! 要注意人物|名簿《めいぼ》」のトップに|記載《きさい》されている人物が、荷袋に半ば|包《くる》まれて目の前にいる。日本には、いや多分世界各国に「物は使いよう」という成句があるが、この見た目と精神に大きなギャップのある美少年王をうまく利用して問題の解決を|図《はか》れれば、ヨザックだって|担《かつ》いで走らされた|甲斐《かい》もあるというものだ。 「わたしをどう使おうか考えているね」  おれは言葉に詰まった。  策略家は他人の心を読む能力にも|長《た》けている。サラレギーはどこか|嬉《うれ》しげに訊いてきた。|炎《ほのお》に照らされて血色良く見えるせいで、おれが|勘違《かんちが》いしているだけだろうか。 「わたしを無事に帰すのを|交換《こうかん》条件にして、あの条約を書き直させるつもりかな?」 「そんな|人質《ひとじち》みたいなことするか」 「人質のつもりではなかったの?」  心底|驚《おどろ》いたという顔だ。自分の命を品物みたいに|扱《あつか》われることに、|抵抗《ていこう》を覚えないのだろうか。それとも幼い|頃《ころ》から王太子として育ったから、こういう事態にも慣れているのか。 「聖砂国皇帝の弱みを|握《にぎ》るために、わたしを|捜《さら》ったのだと思っていたのに! イェルシーにすげなく断られて、予想外の事態に|茫然《ぼうぜん》自失《じしつ》のあなたを間近で見られると、心|密《ひそ》かに楽しみにしていたのに!」 「何だよそりゃ!? 助けてやったんだろ?  そっちがどう思おうと一応助けたつもりだぞ……ていうかちょっと待て。断られんの? 現皇帝の実の兄なのに、すげなく?」  そんな意外な展開の|誘拐《ゆうかい》事件は聞いたことがない。|勿論《もちろん》これは誘拐などではないんだけど。 「その可能性もあるよ。特にあの母上が|介入《かいにゅう》してきたら、わたしなど見殺しにされる確率の方がずっと高い。母上はわたしがお|嫌《きら》いだからね。お加減が悪くて助かった」  |厄介《やっかい》払いができてちょうど良かったとお思いかもしれないと、笑い声混じりに言う。|寂《さび》しげな様子は全くない。 「具合が悪いのが嬉しいのかよ? そんな|馬鹿《ばか》な。親子なんだろ」 「この世にはね、ユーリ。|互《たが》いに情のない親子というものが存在するんだよ。そういう意味ではわたしたちはとても良く似ている」 「とても信じらんねーな、それに」  |納得《なっとく》させるのを|諦《あきら》めて、おれは|両肩《りょうかた》の力を|抜《ぬ》いた。首の筋肉が解れる瞬間に、引き|攣《つ》るみたいな痛みが走る。 「人質をとって、|脅《おど》して結んだ関係なんか、長続きしやしないさ」 「そうかな、わたしならうまくやれるけど。おや……」  右手に|触《ふ》れられる。反射的に引っ込めようとしたのだが、存外強い力で|掴《つか》まれて|叶《かな》わない。サラレギーはおれの小指を火に|翳《かざ》して|眺《なが》めた。 「わたしの|贈《おく》り物だ、まだ外していなかったんだね。もうとっくに指ごと切り落としたかと思っていたのに」 「決めつけるなよ、おれの指だ」  桜貝みたいに|磨《みが》かれた|爪《つめ》が、同じ色の|華奢《きゃしゃ》な輪をそっと|辿《たど》る。表面に|彫《ほ》られた|蔓《つる》薔薇《ばら》といくつもの太陽を確かめるように。|肘《ひじ》の内側に|鳥肌《とりはだ》がたった。 「母上がこの指輪にどんな|想《おも》いを|籠《こ》めたか知ってる?」  知るわけがない。裏側に書かれた文字は読めなかった。直前に確かめられたのは、毒針の飛びだす|仕掛《しか》けがありはしないかくらいだ。おれはお|袋《ふくろ》の|通販《つうはん》のカタログでよく見る言葉を口にした。|遠距離《えんきょり》恋愛《れんあい》とは|質《しつ》が違うが、相手を想う気持ちは同じはずだ。在り来たりだけど胸を打つフレーズ。 「……|離《はな》れても心は|一緒《いっしょ》、とか?」 「ユーリ、あなたは本当に|可愛《かわい》らしいね!」  また突然、サラレギーはおれに|抱《だ》き付いた。以前からスキンシップの|過剰《かじょう》な十代だったが、弟という絶好の相手ができても、他人に抱き付くのはやめないらしい。火の向こうでカチリと金属の音がした。どちらかが、或《ある》いは二人同時に剣《けん》に手を掛けたのだ。それに気付いていながらわざと、首に回した|腕《うで》の力を強める。耳元で|唇《くちびる》が動いた。 「それはね、|呪《のろ》いだよ」  |汝《なんじ》を待つは、闇の扉ばかり。 「母からの言葉が彫られているんだ。わたしが二度とこの国に、この大陸に近付かぬように|戒《いまし》めた、とても強力な|呪誼《じゅそ》の言葉だ」 「お前、そんな指輪をおれにっ」  おれはサラレギーの|身体《からだ》を|突《つ》き飛ばし、|慌《あわ》てて右手を引き|戻《もど》した。 「だから外してしまえと言ったのに」 「お前は……っ、お前なんか……」  助けるんじゃなかった、|吐《は》き捨てそうになった一言を寸前で止める。助けた目的はちゃんとある、あるじゃないか。冷静に話し合うために、少し離れた位置に腰を下ろした。 「さっきも言ったとおり、きみを人質にする意図はない。だからといって王不在の機に乗じて小シマロンに|奇襲《きしゅう》をかけたり、きみ抜きでイェルシーと|交渉《こうしょう》を進めたりするつもりもないからな。|前以《まえもっ》て言っておくけど。一つ訊《たず》ねたいことがあるだけなんだ」  なあにという具合に首を|傾《かし》げる。細い|顎《あご》を|後《おく》れ毛が|撫《な》でた。 「教えてくれ、ジェイソンとフレディっていう女の子のことだ。首都に近い|施設《しせつ》には収容されてないって聞いた。|何処《どこ》にいるのか知ってるんだう? お……きみがイェルシーに、リストに二人の名前を加えるように言ったんだよな。おれを……その」  どうして彼がそんな考えに至ったのかは不明だが。 「|誘《さそ》い出すために?」 「そう」 「船の中で聞いて?」 「そうだよ。あなたはその子供達にご|執心《しゅうしん》のようだったから、名前を聞けば必ず現れると思った。人を使って|捜《さが》すよりも早くて確実だ。実際……そのとおりだった」 「っああ、もう|畜生《ちくしょう》っ」  人よ、常に用心深くあれ。常に周囲を観察し、逆に自分は他人の関心を|惹《ひ》かないように注意深くなる。それが頭の良い生き方の|秘訣《ひけつ》だ。おれの場合は|脳《のう》味噌《みそ》の中までフルオープン。これが万年補欠の秘訣だ。 「余りにもうまく行き過ぎて|拍子《ひょうし》抜けしたくらいだ。名前しか知らない子供達に感謝したいくらいだよ」 「|是非《ぜひ》とも感謝を形で表してやってくれ! 助けたいんだ。どこの施設にいるか、イェルシーは知ってるんだろ? 教えてくれよ。それだけでいい、おれが助けに行くから。今度こそ自分で行く。あの子達がそこに居るのは間違いなんだ、ちょっとした行き違いなんだよ」 「|詳《くわ》しくは聞かなかったけれど」  勢いに|呑《の》まれたのか、サラレギーはちょっと身を引いた。 「確かイェルシーの部下が言っていた。子供や元気な若者は大陸の最も北、|砂漠《さばく》の向こうの施設に送られる場合が多いって。自然環境自体が|苛酷《かこく》なので、|頑健《がんけん》な若者でも|脱走《だっそう》は不可能だからだそうだよ。けど最近では現地の|騎馬《きば》民族の|襲撃《しゅうげき》があって、法力の強い者を|強奪《ごうだつ》したり、労働力を調達したりするんだって。|恐《おそ》ろしいねえ」  もう何が恐ろしくて|誰《だれ》が敵なのか、おれにはさっぱり|判《わか》らない。  騎馬民族の名は、ヘイゼルの話の中でも挙がった覚えがある。|皇帝《こうてい》を|戴《いただ》く国家にありながら、|墓守《はかもり》という立場を利用して、中央の権力に従わない存在だとか。|盤石《ばんじゃく》の体制に思えた聖砂国も|完璧《かんぺき》な専制政治というわけではなく、いざ|懐《ふところ》に入って|覗《のぞ》いてみれば、様々な問題を|孕《はら》んでいたわけだ。 「あの二人は元気で子供で、法力がとても強い。となるとその、大陸の北、砂漠の向こうとやらに送られた可能性が高いわけだな」  ヘイゼルが指した場所の中には、確かに北の施設も|含《ふく》まれていた。騎馬民族の名もその時に耳にした気がする。それだけではない、|他《ほか》に何か重要なことを言っていなかっただろうか。|墳墓《ふんぼ》があるとか、トレジャーハンターだった彼女が地球からこちらの世界に飛ばされてきたのは、皮肉なことに歴代皇帝の墓の中だったとか……。  箱と一緒に。 「……同じ方角か」 「なに? 何と同じ方角だったの」 「何でもないんだ、サラ。教えてくれてありがとう、これであの子達を|捜《さが》しに行けるよ。感謝する」  これ以上興味を|抱《いだ》かせないように、おれは急いで礼を告げた。箱に関する情報は、サラレギーには決して漏らしてはならない。小シマロン王に箱を持たせるのは危険だ。彼は一度、|過《あやま》ちを|犯《おか》している。マキシーンが単独で先走った結果にはなっているが、部下の過失は上司の責任でもある。二度目がないとは言い切れない。 「寒くないか? おれの分の毛布も……」  貸そうかと言い掛けたところで、おれは動きと言葉の両方を止めた。遠くから連続した音が聞こえてきたからだ。それはちょうど|乾《かわ》いた土の上をゆく兵士達の、力強い|軍靴《ぐんか》の音に似ていた。というより恐らく、|靴音《くつおと》そのものだろう。  誰かが地下通路に|侵入《しんにりう》したのだ。しかも一人二人ではない、音と共に|震動《しんどう》が地面を|這《は》う|程《ほど》の数だ。 「コ……」  呼ぶまでもなく二人はそれぞれの剣を手に身を起こし、|松明《たいまつ》に|素早《すばや》く火を入れていた。彼等のことだ、|端《はな》から起きていたに違いない。 「追っ手かな」 「だとしたら、誰を追っているんです?」  |奪還《だっかん》された|処刑囚《しょけいしゅう》はここにはいないし、|首謀者《しゅぼうしゃ》のベネラも協力者の通詞・アチラも|既《すで》にそれそれの根城へと姿を消している。すると可能性としては、サラレギー|誘拐犯《ゆうかいはん》を追って来た兵士だろうか。この場合の誘拐犯はもちろんおれたちだ。 「お前、発信器でも着けてんのかよ!?」 「ハッシンキ、何だろうそれは。あなたの国の新しい農作物?」  サラレギーの|許《もと》には毒女キャラがいないようだ。|無駄《むだ》な発明をしない国、小シマロン。 「ああどうするかなー、誘拐したわけじゃないのに。助けたって言ったほうが近いくらいなのに。袋|詰《づ》めは少々やり過ぎだったとしても、|身代金《みのしろきん》を要求するつもりも|人質《ひとじち》に使うつもりもないのに」  短い|髪《かみ》を|掻《か》き乱し、おれは|苛々《いらいら》とそこら中を歩き回った。ヨザックは早くも剣を抜き、コンラッドは靴音に集中している。とにかく敵の数を知りたいのだ。 「こうなったらしゃあない、腹ぁ|括《くく》って|迎《むか》え|撃《う》ちましょうよ」 「待てよグリ江ちゃん、だって誤解なんだぞ、|濡《ぬ》れ|衣《ぎぬ》なんだぞ!? こっちが傷つくのも|嫌《いや》だし向こうに|怪我《けが》させるのも気が引けるだろ!? だから今おれがこうして|尤《もっと》もらしい言い訳を考えてだな」 「わたしが話そうか?」  見かねたサラレギーが片手を挙げていた。 「取り|敢《あ》えずわたしが責任者に会って、どうやら誘拐ではないらしい|旨《むね》、説明してきてあげようか?」 「ど、どうやって」  サラは事も無げに答えた。 「わたしだけ部屋の外に出て。いきなり|斬《き》り|掛《か》かられたりしたら危ないから、みんなは室内で待っていればいい。少なくともこうして|袋《ふくろ》の真ん中に座っているよりは、ずっと人質っぽくなくなると思うのだけれど」  お説はごもっともなのだが、彼の言葉にはいまいち信用がおけない。たとえば部屋から出た|途端《とたん》に敵方の隊長に抱き付き、誘拐されたの|酷《ひど》い目に|遭《あ》ったの|怖《こわ》かったのーと泣いてから、さあこの部屋に犯人一味が|潜《ひそ》んでおりますどうぞ|捕縛《ほばく》を、とおれたちを差し出すかもしれないのだ。かもしれないどころか、五割くらいの確率でそうするだろう。  |解《わか》っていながらおれは|渾身《こんしん》の力を|籠《こ》めて石戸を引き、サラレギーの背中を押した。きっとまた|騙《だま》されると|諦《あきら》めの|溜息《ためいき》をつき、ヨザックの手を借りて戸を戻した。すると。 「開けて! 開けてユーリお願いだ、ここを開けてッ!」  向こう側で何があったのか、サラレギーの悲鳴じみた声が聞こえてきた。|叩《たた》いてもノックにならない重い戸を、必死で|蹴《け》っているようだ。 「開けて、ここを開けてそっちに入れて!」 「|駄目《だめ》だ。何度おれを騙せば気が済むんだよ、早く連中に説明しろ、誘拐じゃないって」 「|違《ちが》うんだ! あいつらは違う、わたしを助けに来たわけじゃない。開けて、ここを開けて入れて、お願いだユーリ、殺される!」  この演技力に幾度となく弄《もてあそ》ばれてきたのだ。どんなに|逼迫《ひっぱく》した芝居をしてみせても、それを鵜呑《うの》みにするわけにはいかない。この石戸を開けた途端、聖砂国の兵士達が雪崩れ込んできて、まず|戦闘《せんとう》能力ゼロのおれを|拘束《こうそく》する。次におれを|盾《たて》にしてコンラッドとヨザックの動きを止めさせ、最後には……。 「殺される、ユーリ!」  差し|迫《せま》ったサラの声にぎょっとして、おれは助言を求め|両脇《りょうわき》の護衛二人を見た。一人はお|止《や》めになったほうがと言いたげで、もう一人はやけに無表情だった。  ポーカーフェイスを|装《よそお》っていたコンラッドが、|顎《あご》に指を当てて|呟《つぶや》いた。 「小シマロン王にして現皇帝陛下の兄でもあるサラレギーを、問答無用で切り捨てられる兵士なんて……この国には……」  最後まで聞かずにおれは石の引き戸を思い切り転がした。非力なサラでは開けられないのだ。ひと一人がやっと通れる|幅《はば》だけ開けて、サラレギーの白く細い|腕《うで》を|掴《つか》む。 「早くっ」  ほんの|僅《わず》かな|隙《すき》間から、|硫黄《いおう》にも似た|臭《にお》いが流れ込んできた。昼と同じだ。ということは迫ってきている連中も、昼間と同じくこの世ならざる者達かもしれない。 「何を見た!?」  余程動転したのか|両眼《りょうめ》を見開き、血の気を失った|唇《くちびる》を|戦慄《わなな》かせている。しかし|喉《のど》を押さえてどうにか息を整えると、憎らしいことに彼は|直《す》ぐに平素のサラレギーを取り|戻《もど》した。 「人じゃなかった。一歩一歩迫ってくる連中が|皆《みな》、人じゃないんだ。二足歩行はしているんだけど、どう言えばいいのか」 「|腐《くさ》ってる?」 「そう、それだよ!」  会いたくもない新種との|邂逅《かいこう》の|瞬間《しゅんかん》が、おれたちを待ち受けていた。      9  死体と知人が斬り合う光景なんて! ゲームでもなければそんなことは有り得ない。  ところがこちらの世界に|頻繁《ひんぱん》に来るようになって、世の中は何でもありなのだと思い知らされた。骨は空を飛ぶし、マグロには|脚《あし》が生えるし、|砂漠《さばく》にパンダは住んでいるし。|絶滅《ぜつめつ》危惧《きぐ》種《しゅ》のドラゴンまでは|容認《ようにん》できたのだが、しかし|流石《さすが》にゾンビは駄目だ。リビングデッドは無理だ、腐りかけの死体はNGだ。  だって|奴等《やつら》の心臓は止まっている。あの不健康な|肌《はだ》の色を見れば、血液が|隅々《すみずみ》まで行き|渡《わた》っていないのも明白だ。その状態で|何故《なぜ》素早く動いたり、敵と味方を識別したりできるのか。生命科学で説明のつかないことを信じろといわれても、この|歳《とし》になると難しい。頭|硬《かた》くなっちゃってるから。  これが死体ではなくて、|特殊《とくしゅ》な病原|菌《きん》の感染者だというのならまだ|納得《なっとく》はできる。だが、相手はやっぱり死体であって、感染28日後の病人ではない。 「ヨザック、それ死んでるよなっ?」 「ええ多分、一年以上、前、に。|発酵《はっこう》進んでていい感じよーん」 「じゃあ何で通常スピードで動いてんのかな。し、神経組織の伝達とかどうなってんだ!?」 「さーあ。死体の進歩は日進月歩だから、相当性能がよくなってんじゃないスかー? ね、ウェラー|卿《きょう》。 「さあ。最後にこいつらと斬り合ったのは、もう二十五年近く前の話だからな。それなりの進化もするだろう」  コンピューター業界みたいだな。ていうか斬り合ったことがあるんだね、やっぱり。  |蘇《よみがえ》り組との戦闘は慣れた二人に任せておいて、バトル初心者のおれは|脱出《だっしゅつ》方法を探さなければならなかった。|唯一《ゆいいつ》の出口だった石戸は、結構器用に武器を|操《あやつ》る蘇り組達によって|粉砕《ふんさい》され、|占拠《せんきょ》されてしまった。一体何人編成だったのかという具合に、室内の敵密度は高い。  それもそのはず、奴等は死なない。眞魔国の|誇《ほこ》る腕|利《き》き二人が斬っても斬っても、積み重なった|残骸《ざんがい》は再び立ち上がってくる。ハラハラしつつ見守るうちに気付いたのだが、リビングデッド族の弱点は頭ではなく足だ。何故なら足を失えば、格段にスピードが落ちるから。  なんだか段々ゲームをやりすぎた翌朝みたいな感覚になってきた。|恐怖《きょうふ》感が|麻痺《まひ》してきたのだ。死に対して|鈍感《どんかん》になったわけではないけれど、既にして死んでいる者に同情するのはとても難しい。手足がもげても起き上がり、|襲《おそ》い掛かってこようとする様子は、本来ならおぞましい以外の何ものでもないのだが、目の前で|繰《く》り広げられるといっそ|滑稽《こっけい》ですらある。しまった、これがいわゆるゲーム脳か!  |但《ただ》し、ゲーム世代ではないサラレギーは違ったらしく、|壁際《かべぎわ》にしゃがみ込み、|俯《うつむ》いて頭を|抱《かか》えている。 「|大丈夫《だいじょうぶ》か、サラ?」 「……母上が……」 「何だって、お母さんのとこに戻りたいってのか!?」 「母上はお加減が悪いって、イェルシーが……なのに……」 「はあ!? だからあの中のどれがお前の母親なの!? 言ってくれないと間違って斬っちゃうじゃないか」  いくら何でもそれは動転したサラの思い違いだろう。死体から子供が生まれるわけがない。とはいえ、あのマイペースな少年王がこれだけ我を忘れるなんて、|余程《よほど》ゾンビにトラウマがあるのだろう。子供の|頃《ころ》ひどい目に遭わされたとか、夏休み中の世話当番を押し付けられたとか。 「とにかくぼんやりしてないでくれ! |邪魔《じゃま》にだけはならないようにしないと」  |剣《けん》の腕も乗馬の技術もさっぱり上達しないおれだが、|戦闘音痴《せんとうおんち》は戦闘音痴なりに、|肝《きも》に|銘《めい》じている心得や身を守るための|技《わざ》がある。例えば壁にくっついていれば背中から斬られる危険性は少ないとかだ。  但し、斬られはしないけれど|稀《まれ》に|貫《つらぬ》かれることはある。壁が|薄《うす》そうな時は要注意。そういう点でこの壁ほ満点だった。厚さも重さも|充分《じゅうぶん》ありそうだし。 「寄り|掛《か》かっても服に|壁画《へきが》が写ったりしなければ……うわぁっ」  同時に壁に背を預けたおれたちは、同じタイミングで悲鳴をあげた。背中から|斬《き》られる危険性どころか、寄り掛かった壁自体がぐらりと|傾《かたむ》いたのだ。 「……ず、ずれた」  |尻餅《しりもち》をついたまま|振《ふ》り返ると、壁の一部が回転|扉《とびら》みたいに|凹《へこ》んでいた。奥には真っ暗な空間が広がっている。|驚《おどろ》いた、まるで|忍者屋敷《にんじゃやしき》だ。こちらも|仰天《ぎょうてん》したのだろうか、サラレギーも動いた壁を|呆然《ぼうぜん》と|撫《な》でている。 「どうなってんだ、切りがねえよ!」  |滅多《めった》なことでは音をあげないヨザックが|叫《さけ》んだ。 「こいつらの命って何回有効!? 何度ぶった斬ったら大人しく死にやがるんだ」 「操っている者を|倒《たお》さない限りどうにもならない。こいつらに意思はないんだ」 「じゃあその親分はどこよー、とっととそいつを探しだして片ぁ付けようぜ」 「それが|判《わか》ればやっている」  ウェラー卿が剣を|薙《な》ぎ|払《はら》った。蘇り組の頭部が飛んで、|嫌《いや》な|臭《にお》いの液体を|撒《ま》き散らしながらおれの足元に落ちる。 「すみません」 「へ、平気へいきィひー」  |動揺《どうよう》を|隠《かく》しきれず声が裏返ってしまった。それを聞いていたサラレギーは、生ける|屍《しかばね》から|逃《のが》れるように、ふらふらと壁の奥に足を向ける。 「サラ!」  ヘイゼルの必死の説得が|脳裏《のうり》を|過《よ》ぎった。 「|駄目《だめ》だ、そっちはまずいって」 「なぜ?」 「だってそっちは……」  |百戦錬磨《ひゃくせんれんま》のトレジャーハンターでさえ|恐《おそ》れる|闇《やみ》の地下迷宮だ。ダンジョン|素人《しろうと》のおれたちが入り込んで通過できそうな場所ではない。 「でも母上の法術から逃れるには、神の力の|及《およ》ばぬ地下に……もっと深くに|潜《もぐ》るしかない」 「何だって?」  母上の法術? 「じゃあこのゾンビたちを操ってるのは、お前の母親だっていうのか!? ちょっと待て、法術ってそんな種類のものもあるのか……しゅ、|趣味《しゅみ》わるー」  先代とはいえ仮にも一国の|主《あるじ》が。サラレギーとイェルシーの母親という血筋から推測するに、気高く強く美しき|女帝《じょてい》が、ゾンビマスターってどういうことよ。おれの中の女帝のイメージが、またしても音を立てて|崩《くず》れてゆく。 「だ、だからって迷宮に入るのは危険だ。死ぬまで闇の中を|彷徨《さまよ》いたいのか?」 「少しの間だけだよユーリ、母がわたしたちの気配を見失って、|一旦《いったん》諦《あきら》めるまでの間だけだ」 「お前そんな……じゃあお|袋《ふくろ》さんの|狙《ねら》いは、おれたちじゃなくてお前なの」  ただ法力を持たずに生まれただけで、実の母親にそこまで|疎《うと》まれるものだろうか。しかしそれは他家の事情だ。今はとにかくこの場をやり過ごすことを考えなくては。 「止めても無駄だ、わたしは行くよ」 「よせよサラ、一人で行かせるわけには」  サラレギーは思い|詰《つ》めた顔でまた半歩下がった。もう|身体《からだ》は|殆《ほとん》ど闇の側に|呑《の》みこまれている。どうにか思い|留《とど》まらせなくてはならない、彼を単独で行かせて万一のことがあったらどうする。  強国小シマロンの王が我々と行動を共にしていて命を落としたとなれば、重大な国際問題に発展する。過失では済まされない。 「|坊《ぼっ》ちゃん坊ちゃん、オレちょっとそのお人形ちゃんの説も悪くないかもなーって思えてきましたよッ」 「何を言いだすんだ、ヨザック」 「|一瞬《いっしゅん》ならいいんじゃないか。こいつらが引き上げるまで隠れるくらいなら」  ヘイゼルへの|信頼《しんらい》度の|違《ちが》いからか、二人の武人の意見が割れた。ヨザックはじりじりとポジションを移動し、おれたちの居る壁際に近付いてきている。 「ユーリ、あの人の|追跡《ついせき》から逃れるには、地下に|逃《に》げるしかないんだよ」 「でも危ねえって! 火も持たずに一人でどうする気……」  サラレギーがおれの|腕《うで》を|掴《つか》んで引いた。ちょうど右側から襲い掛かってきた|奴《やつ》の|一撃《いちげき》を、ヨザックが寸前で食い止める。おれは|攻撃《こうげき》を|避《さ》けようとしてバランスを崩し、左側から闇に倒れ込んだ。  そこはひどく|奇妙《きみょう》な空間だった。  赤い壁画の部屋と確かに|繋《つな》がっているのに、まるっきり世界が違う。トンネルを通過する時や、高層階へ向かうエレベーターの内部みたいに、耳と|喉《のど》が詰まり、聞こえる音がくぐもる。境目を|踏《ふ》み|越《こ》えてしまうと、あちらの部屋の光景はまるで、四角いスクリーン越しにテレビの映像を見ているようだ。  妙に現実味がない。 「やっぱり|此処《ここ》はよくな……」  おれが|戻《もど》ろうとした瞬間、|地《じ》響《ひび》きに似た音と共に壁が動いた。まだ境目の先にいたヨザックが振り返り、閉まりつつある入り口に息を呑む。おれはサラレギーごと部屋に戻ろうとするが、有らぬ|抵抗《ていこう》にあって|叶《かな》わない。彼を一人残すわけにはいかないと、さっきと同じ問題が脳裏を横切った。 「坊ちゃん!?」  動きがとれないおれに気付いて、ヨザックがぎりぎりのところで飛び込んできた。あと一秒でも|遅《おそ》ければ、間を|抜《ぬ》けられなかっただろう。  もはや大人では通れない|隙間《すきま》から、コンラッドが|駆《か》け寄るのが見えた。名前を呼ぼうとして彼の背後に気付く。 「後ろに!」  ウェラー|卿《きょう》は振り向き様に、重い|刃《は》を剣の根本で受け止めた。ちかりと一瞬、火花が散る。 「コンラッド! どうしよう、奴等がまだあんなに」 「大丈夫ですから!」  |肩越《かたご》しに短く振り返るが、すぐに敵に向き直らなければならない。隙間から見ただけでも、まだ戦えそうな|胴体《どうたい》がざっと十はいる。 「行ってください、俺は大丈夫」 「けど……っ」  閉じ切る前にコンラッドは言った。細い隙間から彼の、彼でしかない声が届く。 「どうか」  城門に似た音を|響《ひび》かせながら、壁が完全に閉じた。|炎《ほのお》と壁画のせいで赤っぽかった部屋の光は、もう一条も|射《さ》し込まない。おれの持つ|松明《たいまつ》だけが、この暗闇で|唯一《ゆいいつ》の光だ。  何という|心許《こころもと》ない|灯《あか》りだろう。  サラレギーがぽつりと眩いた。 「無駄だよ、先に進んで別の出口を探した方がいい」 「無駄なもんか!」  おれとヨザックはもう一度|壁《かべ》を押し開けようと、あらゆる手段を|試《ため》したが、|填《はま》った石はびくともせず、音さえも|漏《も》れてはこなかった。初めからそこに仕掛けなどなかったみたいに、|継《つ》ぎ目も出っ張りもみつからない。  |万策《ばんさく》尽《つ》きた|頃《ころ》になって、おれはやっと恐ろしい言葉を口にした。 「……閉じ込め、られた、のか?」  いや、閉じ込められたんじゃない。呑みこまれたんだ。  |寧《むし》ろこの闇は、おれたちを待ち受けていたようにも思える。      10  ヘイゼルの言葉は、少なくとも一部分は真実だった。  地下は単なる通路ではなく、かといって全くの迷宮でもなかった。|路《みち》の片側は石で補強した壁だが、反対側にはある程度の|間隔《かんかく》をあけて住居らしき小部屋が並んでいる。中には古い|鍋《なべ》など簡単な道具が放置されたままの家もあり、人々の生活の|跡《あと》がはっきりと残されていた。  確かに此処は、数百年前まで都市だったのだ。  大規模|且《か》つ人知れず存在する、地下都市。 「地面の下に何かがあるとは聞いていたけれど、こんなに大規模な物だったなんて」  およそ一時間くらい歩いた頃に、サラレギーが感心したように言った。おれとは逆に|先程《さきほど》までより調子が良さそうな彼は、一本きりの松明をおれたちに預け、自分は少し|離《はな》れた先頭を進んでいた。灯りもないのに不思議と足元が確かだ。  もちろん、右手を壁に|触《ふ》れさせておくのは忘れない。これを|怠《おこた》ると大変なことになる。  |未踏《みとう》の|洞穴《ほらあな》や地下道では、常に壁に触れていないと危険だ。真っ暗闇の広場で|手掛《てが》かりもなく迷ったら、どちらに進めばいいのかさえ|判《わか》らなくなってしまう。一歩先には|溝《みぞ》があるかもしれず、またすぐ|脇《わき》は|断崖《だんがい》絶壁《ぜっぺき》であるかもしれないのだ。  とはいえ、地下は地上より|随分《ずいぶん》暖かく、|寝袋《ねぶくろ》代わりだった分厚く重いジャケットも|要《い》らないくらいだった。前をゆくサラレギーの|恰好《かっこう》など、夏服といってもいい程だ。 「おーい、一人で先に行ったら危ないって言ってんだろ」 「平気だよユーリ、わたしは平気。|腐《くさ》った死体と|戯《たわむ》れているよりずっといい」  |誰《だれ》だってリビングデッドに|襲《おそ》われたいとは思うまい。  |踊《おど》るように歩いてゆくサラレギーの背を|眺《なが》めながら、おれはヨザックの二の腕を|拳《こぶし》で|叩《たた》いた。 |優秀《ゆうしゅう》なお庭番は先程から、彼らしくない|後悔《こうかい》をずっと|繰《く》り返しているのだ。 「あの時オレが飛び込んだりせずに、坊ちゃんたちを引っ張り出してれば……」 「なに言ってんだ、あんたが来てくれなかったら、えっらい不安な二人旅になっちゃうところだったよ」  それにたとえあそこで引き戻そうとしても、おれとサラレギーの二人が抜けるだけの隙間と時間は残されていなかった。無理をすればどちらかが|挟《はさ》まれていたかもしれない。サラを一人にするわけにもいかないし、結果としてヨザックが同行してくれたのは、最善の策だったのだ。 「ひとつだけいいことがあるよ、グリ江ちゃん」 「なんスかー」 「ヘイゼルが言うには、この地下通路は北に向かってるらしい。ということは間違わずに進めば、彼女が来たのと逆の道を|辿《たど》って、|皇帝《こうてい》の墓やジェイソンとフレディの収容されてる|施設《しせつ》の方向へ行ける。まあもっとも……」  自分で言っておきながら、あまりにも楽観的過ぎる気がして、おれは|自嘲《じちょう》気味に付け足した。 「ものすごくうまく行けばの話だけどね」 「いきますよ」  そう願うよ。  それからヘイゼルの話していた|恐怖《きょうふ》にも、この先ずっと|遭遇《そうぐう》しないことを願う。度胸の|塊《かたまり》みたいな女性、ベネラことヘイゼル・グレイブスをあそこまで|怯《おび》えさせたのは、一体どういった種類の恐怖だろう。|闇《やみ》か|獣《けもの》か、それとも|幻覚《げんかく》か。  彼女の話を聞いていなかったヨザックが|羨《うらや》ましい。  その問題から意識を|逸《そ》らそうと、おれは気になって仕方がなかった名前を口にした。 「コンラッドは、無事かな」 「本人が|大丈夫《だいじょうぶ》って言ったんだから、大丈夫でしょう」  お庭番は松明を持たない方の腕を|振《ふ》り回し、肩の筋肉を|解《ほぐ》しながら答えた。 「無理っぽいとふんだら、|最期《さいご》にもっと|笑顔《えがお》の|大盤振《おおばんぶ》る|舞《ま》いしてますよ。特にあなたにはね。意外と態度にでちゃう奴なんですから」 「笑顔って、本当に?」 「ほんとに」  信じていいんだろうな、苦楽を共にしてきた|幼馴《おさななじ》みの言葉を。  「|坊《ぼっ》ちゃんは|優《やさ》しいから心を痛めるのも|解《わか》りますけど、こう見えてもオレたちゃ|幾《いく》つもの戦場を生き延びてきてるんですよ。悪運だって相当強いんだから、そう簡単には死にません。特に隊長の場合は、|斬《き》り合いで命を落としたなんてことになったら、後々何を言われるか判りませんからね、いっそう気合いが入るはず。たかだか|発酵《はっこう》中の死体十|匹《ぴき》くらい、ウェラー卿なら午後の紅茶がわりですよ」 「うえ」  随分と日の|経《た》ったレモンティーだ。でも誰よりもコンラッドの実力を知っている彼がそう言うのだから、きっと|蘇《よみがえ》り組の十や二十、朝飯前ならぬ午後のティータイム前なのだろう。  おれごときが心配したら失礼なのかもしれない。  ふと頭上を見上げて、ヨザックが小さく肩を|辣《すく》めた。 「また|堰《せき》だ。足元気を付けて。さっきから二箇所ばかり通りましたよね」 「うん」  確かに同様の堰を、これまで二つほど通過している。右手を|添《そ》わせている壁に溝が走っているのですぐに気付く。  |便宜《べんぎ》上「堰」と呼んではいるが、実際には原始的な|遮断《しゃだん》装置だ。そう明るくない炎で照らしてみると、頭上には厚さが五十センチはありそうな石板が収納されていた。何かの切っ掛けで重い石板が真っ逆さまに落ちてきて、通路を完全に遮断する仕組みだ。現代でいうシャッターのようなものだろう。  あれだけの厚味と重さがあれば、水も|土砂《どしゃ》も食い止められるだろうが、今のところ地下水脈の音や|匂《にお》いも感じないし、|緩《ゆる》い|傾斜《けいしゃ》が続いているとはいえ、|崩《くず》れた土が土石流を起こすほどの角度ではない。水でも土砂でもないとすれば、あんな|巨大《きょだい》な石を必要とするのは一体どういった種類の脅威《きょうい》だろうか。  思わず背筋が|震《ふる》える。 「あんなのに挟まれたら|一溜《ひとた》まりもないな」 「でしょうねえ」  |跳《は》ねるように前を行くサラレギーの背中が、闇夜の|幽霊《ゆうれい》みたいに|揺《ゆ》れている。|淡《あわ》いグリーンの服だったはずだが、一つきりの|心許《こころもと》ない|灯《あか》りの|下《もと》では、白くぼんやりとしか見えなかった。 「……どうしてあんなに元気なんだ」 「|邪魔《じゃま》|者《もの》が消えたからかもね」 「邪魔者って……コンラッド?」  グリ江ちゃんは続けざまに三回も|頷《うなず》いた。 「コンラッドが邪魔なもんか。サラはコンラッドを大好きだったろう? だって船旅の間中、ずっとこき使って……いやー、|傍《そば》から放さなかったじゃないか」 「あ、やっぱ見てましたぁ?」 「見てたも何も、人目を|揮《はばか》らず人間ハンガーにまでしてたもんなあ。おれはまたあいつは一人っ子だから、お兄ちゃんができたみたいで|嬉《うれ》しいのかねーなんて、|微笑《ほほえ》ましい|想《おも》いで見守っちゃったよ。ほらあの頃はまだ……サラレギーが一人っ子だと信じて疑わなかったからね」  その言葉の後に大きく息を|吐《は》き、空いた左手で顔の半分を|覆《おお》った。 「……おれは人を簡単に信じすぎるかな」  風もないのに|炎《ほのお》が揺らぐ。|突然《とつぜん》何を、と頭上から聞き返された。 「おれは他人より頭が悪いのかもしれないよ、ヨザック。何度同じ失敗を繰り返してるだろう」 「だから突然何を」 「サラのこともそうだ」  |壁《かべ》を|擦《こす》りすぎて、|右掌《みぎてのひら》が熱くなっている。石と土は氷の|如《ごと》く冷たいのに、触れている指は|摩擦《まさつ》で熱い。氷を|握《にぎ》り|締《し》めた後の|痺《しび》れに似ている。 「初めて会った時にさ、|風呂《ふろ》でね、グリ江ちゃんも|一緒《いっしょ》だったろ。おれに|洞察力《どうさつりょく》ってものが|欠片《かけら》でもあればさ、最初からサラがどういう|奴《やつ》か|見抜《みぬ》いていれば、今こんな所には居ないはずだよ。こいつの話に乗せられちゃ|駄目《だめ》だって、防衛本能が働けば」 「そりゃあ無理ってもんですよ、だってあの時は羊も混浴よ? 胸が高鳴っても仕方ないじゃない」  女言葉で|慰《なぐさ》めてもらっても、今回ばかりはあまり嬉しくない。しかもおれはまた同じことを繰り返し、|我《わ》が|儘《まま》言って|突《つ》っ走っては|厄介《やっかい》な事態に|陥《おちい》っている。自分ばかりではない、大切な仲間達まで危険な目に|遭《あ》わせている。  つくづく|駄目《だめ》魔王だと思うよ。|愚《おろ》かな王を|戴《いただ》く|民《たみ》は不幸だ、そう言ったのは|誰《だれ》だっけ。 「そう|仰《おっしゃ》いますがね、坊ちゃん」  不幸な臣民代表のお庭番、魔王陛下の0043号は、おれの頭の|天辺《てっぺん》を指でつつきながら言った。 「陛下が誰かを信じたり、突っ走って一見|無謀《むぼう》だと思うような行動をとったりして、これまで悪い結果に終わったことがありましたか?」  おれが初めて眞魔国に流されてきてから遭遇した事件を、|脳《のう》味噌《みそ》の中で順番に並べてみた。王都、ヴァン・ダー・ヴィーア、スヴェレラ、シルドクラウト、カロリア、シマロン。 「……たくさんあると思うよ。おれの知らないところで、たくさんあったと思う」  そして聖砂国。 「みんなが|庇《かば》ってくれてたんだと思う。そうでなきゃ急に練習したことさえない王様職に|就《つ》いて、どうにかやっていけるわけないもんな」 「うはぅへあはあー」  いきなりヨザックは、|嘆《なげ》くとも|呆《あき》れるともつかない|陣《うめ》きを|漏《も》らした。壁と|松明《たいまつ》で|塞《ふさ》がっていなかったら、両手を上げて天を仰いでいただろう。 「どうしたグリ江ちゃん!?」 「まったくナレはホントに無能ですよ。これだからいつまでたっても閣下に呼び|戻《もど》してもらえず、国外工作員という名の便利屋のままなんだよなー!」  何だ、彼は現在の任務に不満を持っていたのか? 壁から手を|離《はな》してお庭番の服を|掴《つか》んだ。 「今の職場に不満があったのか。てっきり楽しくやってるんだと|勘違《かんちが》いしてたよ! だったら早くそう言ってくれれば、おれからグウェンにそれとなーく伝えたのに。それとなーくな」 「そうじゃありませんよ陛下。オレはね、今、落ち込んでる陛下を|一生《いっしょう》懸命《けんめい》お慰めしようとしてたんですよ」  彼は前方のサラレギーを|顎《あご》で示し、聞こえよがしに舌打ちした。 「隊長の不在はともかく、あんなののことを気に病むこたぁないですからね」  強国小シマロンの少年王をあんなの[#「あんなの」に傍点]呼ばわり。|流石《さすが》は天下のグリ江ちゃんだ。 「なのにオレの必死の説得なんぞ、全然効果示ないじゃないですか! うはぅへあはあー、ほんとにねえ、やっぱオレって駄目兵士ですよねえ。ウェラー|卿《きょう》だったらこんな時、気の|利《き》いた一言とあの|胡散《うさん》臭《くさ》い笑顔で、サクッとどうにかしちゃいますもんねえ。あ、胡散臭くは見えてないんでしたっけ?」  そのとき頭に浮かんだのは、袋の口をきゅっと|縛《しば》るコンラッドだった。 「最近ときどき黒いよな」 「ねー」  グリ江ちゃんは|眉間《みけん》に|皺《しわ》を寄せ、肩につくくらい首を|傾《かし》げた。松明を持ったままの左手首で額を擦る。|髪《かみ》が燃えそうだ。 「そんな腹黒い男の慰めは有効なのに、こんなマッチロなグリ江がどんなに心を|込《こ》めても、口下手なのか微笑みが|庶民《しょみん》なのか、陛下はさっぱり元気になってくれない。やっぱオレって駄目兵士」 「だーかーらー、駄目じゃないって」 「しかも」  すっかり壁から手を離してしまい、ヨザックは|胼胝《たこ》のある長い指で、オレンジ色の髪を乱暴に|掻《か》き回した。 「その|肝腎《かんじん》のウェラー卿が|此処《ここ》にいないのも、オレのせい」 「え、ヨザックのせいって。何、なんか|喧嘩《けんか》でもしたのか?」 「なんの話をしてるんだーい? |面白《おもしろ》い相談ならわたしにも教えてー」  サラレギーが|長閑《のどか》な様子で手を|振《ふ》った。彼は|何故《なぜ》、|灯《あか》りもないのに先に進めるのだろう。|暗闇《くらやみ》にびびるおれなんかとは大違いだ。  ヨザックは|腰《こし》を深く|屈《かが》め、顔色を|窺《うかが》うふりでおれを|覗《のぞ》き込んだ。覚えていたより青い|瞳《ひとみ》には、多くの期待と|僅《わず》かな|悔《く》いが|浮《う》かんでいる。 「……あの|煮《に》え切らない男に言ったんです」  反射的に何を? と|訊《き》き返していた。 「どうしたいのかきっちり考えろって。言ったんですよ、結論が出るまでは|半端《はんぱ》に近寄るんじゃないよって」  おれの頭の中では未だ「何を?」だった。SVOCがさっぱりぽんです、と、ここのところ英語ついている脳味噌が正直に反応した。 「あんたはどっちを選ぶんだ、ってね」 「ああ、コンラッドのことか」  やっと意味が通じた。  つまり彼はウェラー卿に大シマロンと眞魔国のどちらを選ぶのか決めろと|迫《せま》ったわけだ。|恐《おそ》らくどちらの|国籍《こくせき》を持つのか決めるまでは、|馴《な》れ|馴《な》れしくするなとでも言ったのだろう。二人とも人間と魔族の両者を親に持つ同士だから、話が通じやすいのかもしれない。  しかし、どちらがお前の故郷だと|詰《つ》め寄られたって、そう簡単に割り切れるものではない。 「そしたら|拗《す》ねちゃって。あの|野郎《やろう》、ほんとに近付かなくなっちゃいましたよ」 「いや、別に拗ねたわけじゃないだろ。ていうかそんなことじゃ拗ねないだろ」  百歳を|超《こ》えたいい大人が、その程度のことで拗ねたりするもんか。そう否定しながらもおれは、しゃがみこんで砂の上に意味のない落書きをするコンラッドを想像した。|耐《た》えきれず|忍《しの》び笑いが漏れた。 「結局ご一緒するのがグリ江になっちゃって、ごめんね|坊《ぼっ》ちゃん」 「何言ってんだ、ヨザックだって|充分《じゅうぶん》心強いよ。それにいざって時には必殺の女装で、おれの目も楽しませてくれるじゃん」 「これだから陛下が大好きなんだよなあ」  おれが|遠慮《えんりょ》無く背中を|叩《たた》くと、彼は彼でこちらも無遠慮に、おれの首筋をぐいぐい|揉《も》んでくる。満面の|笑顔《えがお》なのはいいが、ただでさえ握力強いんだから少しは手加減してくれないと。  おれたちが後ろでどんな|愚痴《ぐち》合戦をしていようと、気にせずご|機嫌《きげん》だったサラレギーが、|唐突《とうとつ》に振り向いて断言した。 「何か生き物がいる」  下りに入ってから|譲《ゆず》ることなく前を歩いていたのに、今は視線を後ろに向け、視線はおれたちの|肩越《かたご》しに何かを見ている。 「お、おいおいやめてくれよー、サラ。肩に何かいるなんて言われたら、今夜から一人でトイレに行けないじゃないか」 「やだわー、坊ちゃんたら|水臭《みずくさ》いんだから。グリ江でよければいつでも連れションするわよ」 「常に|隣《とをり》から覗き込まれそうな連れションはヤダなー」  きょとんとするサラレギー。こんな顔をすると本当にかわいい。 「ツレ、しょん? いいえユーリ、少年|釣《つ》り大会のことではなくて。あなたたちの肩の向こう、坂の上の通り過ぎてきた場所に、生き物が見えたんだよ」 「そんな遠く!?」  しかもこの暗さだ。松明はおれとヨザックが交代で持っているから、サラレギーには全く灯りがなかったはずだ。にもかかわらず遠くで動いた生き物を認めたという。 「サラ、お前どーいう目ぇしてんのよ」  当の本人は流れる雲みたいにふんわり|微笑《ほほえ》んで、人差し指と中指で長い|下睫毛《したまつげ》に|触《さわ》った。 「前にも話したでしょう、ユーリ。わたしの瞳はね、こんなに明るい黄金色をしているけれど、熱や光にはとても弱いんだ。特に太陽の光にはね」  知っている。彼は視力が悪いわけではなく、目を保護するために|眼鏡《めがね》をかけていたのだ。あの|薄《うす》い|硝子《ガラス》はとても良く似合ってたな、|今更《いまさら》ながらにそんなことをぼんやりと考える。 「だから逆に、暗いところではとても調子がいいんだ。だって|眩《まぶ》しくないでしょう。急に暗い場所に入ると、最初は|戸惑《とまど》うけれどすぐに慣れる。明かりがないほうが楽なくらいだ」 「え、慣れるって……まさか見えるのか?」 「見えるよ? 皆だって時間が|経《た》てば見えるようになるでしょう?」 「|普通《ふつう》は見えねーよ!」 「そうなの」  そんな不思議そうな顔をされると、普通人としては困ってしまう。  と同時に|記憶《きおく》の|扉《とびら》が開いたのか、彼は、ああだからみんな|寝《ね》るときは暗くするのか。あれ、暗いから|眠《ねむ》ってしまうのかな、それとも眠るために暗くするのかな、なんて可愛らしいことを|眩《つぶや》いている。 「それ、ものすっごく便利な才能じゃねえ? 法力がないから国を追われたなんて言ってたけど、それって立派な法術だと思うけど」  少なくとも|翻訳《ほんやく》法術の持ち主・アチラ通詞より、ずっと|特殊《とくしゅ》な能力だろうに。あれは絶対に努力の|賜物《たまもの》だと思う。そんな努力型の苦労も知らず、サラレギーは|綺麗《きれい》な指を|唇《くちびる》に当てた。 「さあどうだろう。程度の違いこそあっても、皆見えるものだとわたしは思っていたから」  才能で勝負できる天才型が|憎《にく》い。憎いというより|羨《うらや》ましい。  サラレギーは松明の温かく|柔《やわ》らかい光の|下《もと》で目を細め、天使がするように微笑んだ。 「でもねえ、わたしはもう法術なんてどうでもいいんだよユーリ。だってそんな、神から|与《あた》えられた力なんかなくても、人は何でもできるもの。神に感謝しなくても、わたしは国を治められるし、欲しいものだって何でも手に入るもの」 「……ひと月前に聞いたら、きっと感動してただろうな」  おれはポケットに片手を突っ込み、溜息混じりに咳いた。右手は壁に添《そ》わせている。  でも今はお前って人間の本質が|判《わか》っちゃったから、|素直《すなお》に格好いいとは思えないな。国を治める力は確かだが、欲しいものが何でも手に入るのは、手段を選ばないからだろう。 「気になるのはその、生き物って|奴《やつ》ですよ」  ヨザックが|腕《うで》を突き出して、なるべく後方を照らそうとした。 「こんな|餌《えさ》も無いような地下に、人の目で|捉《とら》えられるような大きさの動物が|棲《す》み着くもんですかね。それともあの死体連中が、ずっと追ってきてるのか」 「この世ならざる兵士達は来られないよ。母上のお力は、こんな地下までは|及《およ》ばないから」 「お前のお|袋《ふくろ》さんってのはどうしたいんだ。実の|息子《むすこ》をゾンビでつけ|狙《ねら》って」 「さあねえ」  信じられないくらい|冷淡《れいたん》な口調で、彼は母親の名前を言った。 「わたしを|亡《な》き者にしたいのだろうね、|女帝《じょてい》アラゾンは。わたしがイェルシーを意のままに|操《あやつ》って、聖砂国を我が物にするのではないかと、|怯《おび》えているのだろうね」 「だからって……殺そうとするなんて」 「そういうものだよ、権力に|執着《しゅうちゃく》するひとは」 「素敵、お人形ちゃんそっくりだわ」  ヨザックがふざけた調子で言ったひとことに、茶化されたと感じたのか、サラレギーはきつい|眼差《まなざ》しで、自分よりずっと背の高い男を見上げた。 「お人形というのは|誰《だれ》のこと?」 「あんたですよ、小シマロン王」 「わたしが?」  おれが割って入る間もなく、彼等の間に冷たい火花が散る。サラが|頬《ほお》に血を|上《のぼ》らせ、故意に感情を|抑《おさ》えて言った。 「わたしのどこがお人形だと?」 「うーん。見た目、仕事、お母様から|逃《のが》れられないところ、全部かな」 「母上の支配からは逃れている!」 「失礼失礼、じゃあ弟を|偲偶《かいらい》にして国を操ろうとする、お人形|遣《つか》いちゃんかな」 「はいはい、はーいはい」  人形|扱《あつか》いはサラレギーが気の毒に思ったので、両手を突きだして交戦中の間に入った。素晴らしき体格差。 「|頼《たの》むからこんな危機的|状況下《じょうきょうか》で争わないでくれ。ただでさえ旅の運勢|最凶《さいきょう》最悪なのに。大体おかしいだろ? グリ江ちゃんとサラ、別にそんなに仲悪くなかったじゃん。それより大して口もきかないような|間柄《あいだがら》だっただろ? なのに何だよ、今のこの、昔から|大嫌《だいきら》いでしたっぽい関係。あんたら急にどーかしちゃったの? もしかしておれの知らないうちに、|闘争《とうそう》本能|駆《か》り立てるガスでも吸っ……なにこの音」  地鳴りに似た音と細かな|震動《しんどう》が、まるで音量ボタンを押しっぱなしにしたテレビみたいに急速に近付き、大きくなった。細かな|爪《つめ》が地面を引っ|掻《か》くような音と、神経を|逆撫《さかな》でする高い鳴き声。おれたちの来た方向から、灰色の|絨毯《じゅうたん》が一気に広がる。  |物凄《ものすご》い数の|鼠《ねずみ》の群れが、|緩《ゆる》い坂道を大移動してきた。 「これ悼"サラの見た動物ってこれ!? やぺえネズミ、ネズミはヤバイって!」 「落ち着いて|坊《ぼっ》ちゃん。岩のふり、岩のふりしてやり過ごすのよッ」  おれは両手を|万歳《ばんざい》状態にし、ぎゅっと目を閉じて壁に寄り|掛《か》かった。岩のふり岩のふり……一枚、二枚、うーんもう食べられナーイ。しまったこれは番町|皿《さら》屋敷《やしき》だ。 「だってこいつらに|囓《かじ》られたら、ペストかネコ型ロボットか|舞浜《まいはま》行きか三つに一つなんだぜー!? グリ江ちゃんはドラえもんの味わった|恐《おそ》ろしさを知らないから、そんな|悠長《ゆうちょう》なことを言っていられるんだと思います。っがーっ足の上、足の上をーっ!」 「しょうがないなあ、どうしてもというならお|姫様《ひめさま》だっこしてあげますけど」 「……いや、遠慮するよ」  |河川敷《かせんじき》グラウンド育ちのおれがこの有様なのだから、王宮育ちのサラレギーなんかもっと大変だろう。ふと|隣《となり》を見ると、意外に冷静な彼が顔だけをそちらに向けて、坂の上をじっと|見詰《みつ》めていた。足の上を駆け|抜《ぬ》ける鼠など気にも留めていない様子だ。  やがて彼は|此処《ここ》にはいない誰かに|挑《いど》むように腕を上げ、おれには|虚空《こくう》にしか見えない|暗闇《くらやみ》に向けて、白い細い指先を向けた。  黄金色の|瞳《ひとみ》は地下にあっても|輝《かがや》いている。その姿はまるで、人に死を宣告する天使か、|或《ある》いは|悪魔《あくま》のようだった。  闇を|見透《みす》かす彼の|眼《め》には、|他《ほか》にも何か見えているのだろうか。      11  |小柄《こがら》でよく動く|白髪頭《しらがあたま》を探して、彼は早朝の市場を歩き回っていた。  昨晩聞いた活動|拠点《きょてん》のうち、主だった場所ではここが最後だ。居てくれと|祈《いの》るような気持ちだ。荷車と老女の組み合わせを見ると、断りもなく|覗《のぞ》き込んでは顔を|確認《かくにん》する。こういう時に限って|皆《みな》、|人違《ひとちが》いだ。  昼を前に商売が一段落つく|頃《ころ》になって、彼はようやく目的の人を見付けだした。異国の生まれを示す茶色の|瞳《ひとみ》に、少しだけ|安堵《あんど》の|影《かげ》が差す。 「ヘイゼル!」 「おや」  荷車を置き一息いれていたヘイゼル・グレイブスは、見知った相手に短い英語で答えた。 「おはよう、|昨夜《ゆうべ》はよく|眠《ねむ》れたかい?」 「いいや。お|心遣《こころづか》いには感謝しているが、予想外の事態に|見舞《みま》われて」 「予想外……? どうしたんだいウェラー氏、そんなに息|急《せ》き切って。それに」  |嫌《いや》な予感に|駆《か》られてコンラッドの背後を見やる。|誰《だれ》の姿もない。 「|坊《ぼう》やたちは」  魔族の護衛は|逡巡《しゅんじゅん》し、しかしすぐに|悟《さと》って話を続ける。 「昨夜|遅《おそ》くに、この世ならざる者達の|襲撃《しゅうげき》に|遭《あ》いました。生きた死体です。この国にはその|類《たぐい》の法術使いもいるようだ」 「遺体を|操《あやつ》る法術って、何ということを。神と死者への|冒漬《ぼうとく》だよ」 「そう考えるのはあなただけかもしれないよ、ヘイゼル。宗教観の違いは|如何《いかん》ともしがたい。どうやら死人|遣《つか》いの正体は、|皇帝《こうてい》陛下の母であるらしいし」 「アラゾンが? 確かに|冷酷《れいこく》で|残虐《ざんぎゃく》な|女帝《じょてい》だが、そんな|恐《おそ》ろしい術の持ち主だったかね」  そんなことはどうでもいいと右手を振って、コンラッドは敵の説明もそこそこに本題に入った。 「しかし俺にとって重要なのは、|主《あるじ》が|壁《かべ》の向こうへと|踏《ふ》み込んでしまったことです」 「何だって!? 壁の向こうへ!?」  ヘイゼル・グレイブスは|一瞬呆気《いつしゅんあっけ》にとられたが、|流石《さすが》に熟練した冒険家だけあって、|即座《そくざ》に自分を取り|戻《もど》した。思わずウェラー|卿《きょう》を問い|質《ただ》す。 「あれだけ言ったのに一体どうして……どうして行かせたんだい。そんなに墓場の財宝が欲しかったとでも? あんたたちの目的は|双子《ふたご》ずだ。それともやっぱり守護者達に|見咎《みとが》められないように、墓に近付くのが目的だったと……そういう子には見えなかったのに!」 「財宝? 誤解されては困る。陛下はそんなものを望まれたことは一度もない。ただ同行者が|怯《おび》えて|逃《に》げ込んだのを|放《ほう》ってはおけず、ご自分も入られただけだ」 「同行者というのはあれかい? あの、オレンジの|髪《かみ》の」  |黙《だま》りこむコンラッドを前にして、片側の|眉《まゆ》だけをひくつかせながら、ヘイゼル・グレイブスは|顎《あご》を反らせた。 「いいだろう、聞かせてもらうことが|沢山《たくさん》ありそうだ。それよりも|何故《なぜ》あんたが此処にいて、守るべき坊やがいないんだい? あんたはボディガードだろうウェラー氏、まさかあの子だけ行かせたなんてことはあるまいね」  息をするのさえ|辛《つら》そうに眉を|輩《ひそ》め、コンラッドは首を振った。 「一人じゃない。俺などより|余程《よほど》頼《たよ》りになる男がついている。しかし」  相手が|後悔《こうかい》し、傷ついた顔をしていようがいまいが、ヘイゼルには関係がなかった。彼女は|容赦《ようしゃ》なく言った。 「そんな顔をするくらいなら、最初から他人になど任せるんじゃないよ」  彼はいっそう悲痛な|面持《おもも》ちになり、|握《にぎ》り|締《し》めた|拳《こぶし》を|剣《けん》の|柄《つか》に押し付けた。よく見るとそれは飛び散った|肉片《にくへん》と|腐敗《ふはい》した体液で|汚《よご》れていた。 「すぐにでも追いたいと思ったんだが、入り口は|閉《と》ざされたきり動く気配もない。教えて欲しい、ヘイゼル。あの壁はどうすれば開くのか。今からでも陛下を追うには、俺はどうすればいいのか」  年老いた女は|腕組《うでぐ》みをして聞いていたが、やがて近くにいた知り合いの|奴隷《どれい》に声を|掛《か》けた。 「あたしの荷車を運んでおいておくれ」 「なんだ|婆《ばあ》さん、許可無く|離《はな》れれば|罰《ばっ》せられるだろうに。何も好きこのんで|鞭《むち》で打たれなくてもよかろうよ」 「お黙り。少しは男らしいとこを見せてみなよ|腰抜《こしぬ》け。あたしが姿を消したことなど、あんたが口を|噤《つぐ》んでいれば誰も気付きやしないんだよ」  ヘイゼルは男の|肩《かた》を軽く|突《つ》いて、にやりと老婦人らしからぬ|笑《え》みを|浮《う》かべた。 「それともあんたの心臓は、干し草の中で|震《ふる》える|雌鳥《めんどり》なみかい? さあ行こうか、ミスター。雌鳥男のせいで、待たせてしまって悪かったね」  そして昨日とは逆の方向へと歩を進めながら、低い声で英語に戻した。 「壁の開け方はあたしも知らない。自分の時だって|偶然《ぐうぜん》に近かったんだ。これ以上その入り口に時間を|割《さ》いても、|無駄《むだ》に|遅《おく》れをとるだけだ。今からなら追い掛けるよりも、|寧《むし》ろ地上から先回りしたほうが早いかもしれないよ」 「先回り?」 「そうだ。言っただろう、あの地下都市が何処へ向かっているか。うまくすれば|途中《とちゅう》の横穴で待ち伏せて、合流できるかもしれない。いずれにせよ首都を離れることになるが、行ってみるかい?」 「もちろん」  どれだけ本気なのか確かめようとコンラッドの顔を|見詰《みつ》めるうちに、ヘイゼルは彼の右眉に傷があるのを発見した。ふと、魔族の|年齢《ねんれい》について聞いた話を思い出す。 「魔族の皆さんの年齢は外見からはとても計れないと言うね。ひょっとしてあんたも、あたしより年上だったりするのかもしれない」  |突然《とつぜん》なにを言いだすのかと、彼は傷のある右眉を上げた。グレイブスは|厳《しわ》深い手で男の腕を|叩《たた》く。 「けど何故だろうコンラッド、あんたを前にすると、|息子《むすこ》か孫と|喋《しゃべ》っているような気にさせられるよ。おかしな話だろう?」  そこまで言って|榛色《はしばみいろ》の目を細め、|喉《のど》の奥で笑う。 「あたしには息子も孫息子もいなかったってのにね」 「タビネズミ・レミングの冒険、大移動編」を|恐怖《きょうふ》に顔を引き|攣《つ》らせながらやり過ごしたおれたちは、次なる動物|被害《ひがい》に遭う前にと、続く地下通路を急いでいた。 「なんていうか、こう、|巨大《きょだい》化してなかっただけマシだよな」 「そうですね。巨大化なんかされたひにゃ、|可愛《かわい》げもなくなりますもんね」 「元々可愛くなんかないよ」 「眞魔国では巨大化が流行なの?」  赤い部屋から半日近く歩いたことになるが、わずかその程度の移動でも地下都市の様相は一変していた。この辺りになると住居|跡《あと》が極端に減り、都市というより地底に|設《しつら》えた街道っぽくなっている。これまでに比べて通路はほぼ直線になり、広さも高さも一定になった。  入り口近くが手作りの|田舎町《いなかまち》だとすれば、この辺は近代化された高速道路地帯というイメージだ。高速で走り|抜《ぬ》ける車などいないのだが。  両側の壁が容易に確認できたため、もう|掌《てのひら》を|摩擦《まさつ》で熱くする必要はない。おれは右手で|松明《たいまつ》を持ち、空いた片手を服の上から胸に当てていた。  おれの体温が伝わっているのか、先程から|魔石《ませき》が|奇妙《きみょう》な熱を持っている。不意に顔を|顰《しか》めるほど熱くなったり、外気に|曝《さら》されたように冷たくなったり。  近くに法術師がいないとはいえ、ここは法力に満ちた神族の土地だ。相対する力の中に放り込まれて、石も調子を|崩《くず》しているのだろうか。  逆にサラレギーに|填《は》められた|薄桃色《うすももいろ》の指輪の方は、ただの石同然に静まり返っていた。聖砂国でしか採取できない|珍《めずら》しい石だと聞いたのだが、何の反応も示さない。痛みがないのはありがたいが、おれをあれだけ苦しめた指輪がこう大人しいとなると、装着者としては少々気味が悪い。  元々神族の宝なのだから、久々の帰省にもっとはしゃぎ、色めき立ってもよさそうなものなのに。 「……まあ、石だからな」  石といえば相変わらず|堰《せき》も多い。  通路の|幅《はば》が広くなったせいか、シャッター代わりの|石板《せきばん》もいっそう大きくなっている。先程までと|違《ちが》うのは、手前の壁にスイッチらしき出っ張りがある点だ。あれを|弄《いじ》れば操作できるのだろうか。それにしたって|鼠《ねずみ》の大群でなければ一体何を|遮断《しゃだん》したいのだろう。疑問はいっそう強まった。  そもそも奴隷階級に追いやられた人々が住む街に、そんな大掛かりな|防御《ぼうぎょ》システムが必要だろうか。|僅《わず》かに残された家財道具から察するに、住人が|裕福《ゆうふく》だったとはとても思えないし、第一こんな|城塞《じょうさい》なみの仕掛けを作る余力があれば、奴隷になど甘んじてはいないだろう。  考えれば考えるほど妙な話だ。  おれはゆっくりと頭を振って、無駄な推測を|諦《あきら》めた。よそう、今心配すべきことは一本しかない松明の|寿命《じゅみょう》だ。未明から使っていた|唯一《ゆいいつ》の|灯《あか》りは、持ち手に熱さを感じるほど短くなっている。この火が消える前に|代替物《だいたいぶつ》を探さなければならない。|鍋《なべ》や|匙《さじ》では代わりにならないし、やっぱ服か、服を燃やすしかないのか。 「ユーリ」 「いいよ男らしくおれが|脱《ぬ》ぐよ……え、何だって?」  呼ばれてサラレギーを見ると、終わり近くでいっそう激しくなった|炎《ほのお》に照らされて、金色の|随毛《まつげ》まで光っていた。熱と光は|大丈夫《だいじょうぶ》なのだろうか。  彼はこの地下都市に入ってから、以前より|壮健《そうけん》そうに見える。  会ったばかりの|頃《ころ》や船旅の間は、本人はあれで健康な状態だったのだろうが、|傍《はた》から見るとどうにも|儚《はかな》げで病弱なイメージがあったものだ。ところがこの地下に|踏《ふ》み入ってからは、血色の良さも|瞳《ひとみ》の|輝《かがや》きも以前に|勝《まさ》り、おまけに精神的にも|高揚《こうよう》しているらしい。  |暗闇《くらやみ》で視力を保てたり、おれたちより先に動物の気配を察したりと、法術を持たないという自己申告が信じられないほどだ。 「聞こえる? ユーリ、何かが来てる」 「なにかって、また鼠とか……」  ようやくおれにも音が届いた。この重い|震動《しんどう》と|衝撃《しょうげき》は、小さな動物の群れなどではない。正体に気付いたらしいヨザックが、おれの肩を思い切り前方に押した。 「陛下、走って!」 「えっ、なに」 「いいから走って! 振り返らずに」  言われた時にはもう|遅《おそ》く、おれは|左脚《ひだりあし》を踏み出すと同時に、|身体《からだ》を|捻《ひね》って後ろを|確認《かくにん》していた。追ってくる者の姿を一目見ようと、半歩を|犠牲《ぎせい》にして視界を広げる。  それは最初、松明の炎では、単なる|砂埃《すなぼこり》にしか見えなかった。だが前に走ろうとよろめきながら二度目に振り返ると、通路とほぼ同じサイズの丸い岩が、|地響《じひび》きと共に転がってくるのだと判った。  |輪郭《りんかく》が闇に|溶《と》けこんでいたため、はっきりとした球体に見えなかったのだ。 「見ている|暇《ひま》はありませんって!」 「だって、何だよあれ!? あんなもんどこから!?」  鼻の先でサラレギーの服が|靡《なび》いている。  彼が走っているところを初めて見た。そりゃあ生まれついての王様だって、|逃《に》げ場のない地下道で巨大な岩に追い掛けられたら走る。|袖《そで》を|靡《なび》かせ、|裾《すそ》を|翻《ひるがえ》して。  おれはもう一度だけ振り返り、転がる岩と通路の|壁《かべ》や|天井《てんじょう》の間に|殆《ほとん》ど|隙《すき》間がないのを確かめた……わざわざ|不愉快《ふゆかい》な事実を確認してしまった。  |脇道《わきみち》か|窪《くぼ》みでも見付けて身を|隠《かく》さない限り、|逃《のが》れる|術《すべ》はないってことじゃないか。しかも|先程《さきほど》からずっと、この通路には|避難《ひなん》場所が無い。こんな事態になるとは思わぬままに、逃げ場がないのを確かめながら歩いてきていた。  そうと知らずに自分で自分の|墓穴《はかあな》を|掘《ほ》るような|行為《こうい》だ。  高速道路地帯などと|喩《たと》えて|悦《えつ》に入っていたが、何のことはない、高速で|駆《か》け抜けるのは人でも車でもなく、通路サイズにぴったりの巨大岩石だったわけだ。 「なんかこーいうの映画で|観《み》たよ! ハリソン・フォードが逃げてんの」 「……これは|罠《わな》ですね」 「罠!? って|誰《だれ》が、誰のために、|仕掛《しか》けた、罠だよっ!?」  全速力で走りながら聞き返すと、|危《あや》うく舌を|噛《か》みそうになった。だってここは地上を追われた人々が生活する場所だったはずだ。そこに|何故《なぜ》、こんな罠が必要ある!?  ふとヘイゼル・グレイブスならどうするだろうと考えた。  有り得ない危険な罠も、トレジャーハンターなら当たり前のように|回避《かいひ》しているだろう。ヘイゼルやその後を|継《つ》いだという|孫娘《まごむすめ》、そしてこの先も代々続くであろう|冒険《ぼうけん》野郎《やろう》、冒険|淑女《しゅくじょ》達なら、この危機をどう回避するだろうと思ったのだ。  バズーカ砲を構えるアメリカ人のイメージが浮かんだ。日本人には参考にならない。 「ユーリ!」  息を|弾《はず》ませながらサラレギーがおれを呼ぶ。その声はとても楽しげに聞こえた。おれが|不謹慎《ふきんしん》なだけなのかもしれない。 「どこまで走ればいいのだと思う?」 「知るかよッ」  反射的に|叫《さけ》んでしまってから、闇を|見透《みす》かす彼の特技に気付く。松明|頼《だよ》りのおれたちとは質が違う。 「サラ、そのよく見える目で逃げ場を探してくれ!   脇道だとか壁の窪みだとか、何でもいい。あの岩を|避《さ》けられる場所だ」 「全然ないね」  ……|訊《き》くんじゃなかった。  勢いのついた重い球体が転がる速度は、人の全力|疾走《しっそう》よりもずっと速い。それがごく|緩《ゆる》い|斜面《しゃめん》だとしても。  背後に|迫《せま》った|凶器《きょうき》は、|既《すで》にその衝撃でこちらの足が|縺《もつ》れるくらいまで近付いている。あれが生きていたら、|息遣《いきづか》いまで聞こえそうな|距離《きょり》だ。  |隣《となり》でヨザックが、|一瞬《いっしゅん》自分の|爪先《つまさき》を見て、片目だけをぎゅっと|瞑《つむ》った。痛みを|堪《こら》えるような仕種だ。不意に彼の身体が右に|傾《かたむ》いた。 「ヨザック!?」  どこか|傷《いた》めたのかと|驚《おどろ》いたが、どうやら単に壁に近付こうとしただけらしい。 「走って、そのまま。止まらないで」  もちろんそうするつもりだが、ヨザックがいきなり何を言いだすのかと気になり、僅かに速度を落とした。  |怪訝《けげん》そうな顔になっていたらしい。彼は安心させるように、左の|掌《てのひら》やほんの一瞬おれの|頬《ほお》に触れた。そしてまるで彼らしくなく、クリスマスの絵画みたいに笑った。 「あなたは走るんです、陛下」  だが、彼は足を止めた。 「ヨザっ……」  おれは勢いを殺せず、そのまま駆け|抜《ぬ》けてスリップして転び、足の下の土を|削《けず》ってやっと止まった。|腰《こし》を捻り、|戻《もど》ろうとする目の前に、何度も見上げては厚さを測った石板が落ちてくる。 |轟音《ごうおん》と共に地面に食い込み、空間はそこで分断された。  向こう側で彼がスイッチを押したのだ。 「ヨザック!?」  取り|縋《すが》ろうと掌と胸を押し付けたところで、金属の折れる音と|硬質《こうしつ》な石同士がぶつかる|鈍《にぶ》い音がした。石板の表面に伝わった衝撃で、身体が再び|弾《はじ》き飛ばされた。  投げ出された|松明《たいまつ》が、最後に細い|煙《けむり》を残して消える。まるで光が道連れにしたように、音も|全《すべ》て消え去った。  暗闇の中、転がった瞬間と同じ姿勢で、おれはただ座り込んでいた。声を発するのも|恐《おそ》ろしかった。もしこれが夢なら、動くと同時に現実になってしまいそうで、指の一本を|震《ふる》わせることさえできない。  そうしてじっと待っていれば、あの重い石をひょいと持ち上げて、今にも彼が姿を現すのではないかと思って、息をすることさえできなかった。  だが闇は闇のまま、静けさは静けさのままで、いつまで待っても何も起こりはしない。  やがて|砂粒《すなつぶ》を踏む|控《ひか》えめな足音が顔の|脇《わき》に近付き、細く|柔《やわ》らかな声がおれを呼んだ。 「ユーリ」  瞬間的に|怒《いか》りが|湧《わ》き上がる。  声をだしやがって、音を立てやがってと、|理不尽《りふじん》な怒りの|矛先《ほこさき》を危うく他人にぶつけるところだった。  おれは返事をせず、ゆっくりと手順を踏んで身を起こし、痛む|膝《ひざ》で新しくできた壁の|下《もと》まで|這《は》いずった。全ては暗闇の中、|手《て》探《さぐ》りだ。 「……ヨザック?」  膝立ちで届く高さからずっと、|磨《みが》かれて|滑《なめ》らかな石の表面を|撫《な》でた。一番下まで|辿《たど》ってやっと、壁よりは柔らかい地面に触れる。おれは人差し指で九十度の継ぎ目をなぞった。  何度もなぞった。  もう一度名前を呼んだら、|耐《た》えられなくなった。 「どうして……っ!」  土と石の混ざった路面を掘ろうと、ただひたすら指を動かす。実際には引っ|掻《か》く程度にしかなっていないだろうが、そんなことはどうでもよかった。向こう側まで掘らなければならないと思っていた。  |繰《く》り返し名前を叫び、返事をしない彼を|罵《ののし》った。 「ユーリ」  |肩《かた》に手を置かれても気付かず、それが誰なのかさえ考えもしない。 「泣いているの?」  生きてる誰かがおれの隣にしゃがみ込む気配があった。その時になってやっと、サラレギーがいたのだと|判《わか》る。柔らかい|髪《かみ》が、おれの頬に触れた。  自分が目を開いているのかどうかも判らないような|闇《やみ》だ。サラがどんな顔でおれを見ているのかなんて、知るわけがない。 「|違《ちが》う所を掘ってる」  |触《さわ》り慣れているはずの彼の手が、おれの手首を|握《にぎ》って引っ張った。左へ、|前腕《ぜんわん》の長さくらい左の地面へと。  そこだけ、ぬるつく何かで|濡《ぬ》れていた。  サラレギーの指先が、おれの手を|掠《かす》めるようにしてそこに触る。|微《かす》かな空気の流れで、隣の|腕《うで》の動きを感じる。  サラは、くんと小さく鼻を鳴らし、その濡れた指のままでおれの左頬を撫でた。  血だ。      12  日の|射《さ》し込まない地下を移動していると、今が一日の内いつ|頃《ごろ》なのかが判らなくなる。  つい|癖《くせ》で自分のデジアナを見ようと手首を|掲《かか》げるが、城に置いてきたことを思い出した。どのみちたっぷりの|紫外線《しがいせん》を吸わせてやらなければ、夜光|塗料《とりょう》も役に立たない。それにしても自分の腕さえ判らないとは、どれだけ深い闇なのだろうか。  たとえ暗闇の中に置かれても、最初の内は地上での時刻が気になる。時計が読めなければ|疲労《ひろう》の状態や空腹感、ひいては歩数まで持ち出してきて判断しようとする。  だがそのうち、そんなことはどうでもよくなり、休息や食事への欲求も忘れる。何もかもどうでもよくなってしまうのだ。  おれはただ、足を動かしていた。  右の次は左、左の次はまた右という具合に、転ばずに歩くことしか頭になかった。この地下通路を通り抜けて、|砂漠《さばく》の向こうの|施設《しせつ》と|墳墓《ふんぼ》へと向かう。過去に決めた自分の意志に、|唯々《いい》諾々《だくだく》として従っているだけだ。  片手は|壁《かべ》から|離《はな》せない。暗闇の中を手探りで歩くには必要なことだ。  不意に空気が止まり、先を歩いていたサラレギーの気配が消えた。この闇の中で彼とはぐれたら、自分は一体どうなるのだろう。彼は夜目が|利《き》き、火が無くても行き先が見えるが、おれは月明かり、|或《ある》いは陽光が射し込むまで何も見えない。  一人では絶対に|踏破《とうは》できないだろう。今のところは一直線の通路だが、この先|分岐《ぶんき》点にでも差し|掛《か》かれば、道に迷い|飢《う》えて野垂れ死ぬかもしれない。それを恐ろしいと感じるよりも、|諦《あきら》める気持ちが大半を|占《し》め始めていた。  仕方がないと。  前方から気配を消したサラレギーは、歩みを止め、おれが追いつくまで待ってくれたらしい。彼独特の空気が|隣《となり》に来ると、いつもどおりの声が聞こえた。 「見えないんだね」  |黙《だま》って|頷《うなず》く。言葉で返事をしなくても、サラレギーには見えているはずだ。 「歩きにくいでしょう、手を引いてあげる」  そう言うと、案の定おれの返事も待たず、勝手に左手を握りさっさと歩き始めた。 「暗い中で見えないなんて、皆は本当に不便な生活をしていたのだね。わたしはずっとこれが|普通《ふつう》だったから、てっきり皆も見えるものだと思っていた。だから真っ暗闇でも|眼《め》を開けているわたしのことを、女官たちが|妙《みょう》な名前で呼んでいたわけだ」  妙な名前か。そういえばサラレギーには何か変わった呼称があった気もする。 「ごめんねユーリ。わたしはそういうところになかなか気が回らなくて」  |繋《つな》いだ手を子供みたいに|振《ふ》り回し、わざわざ並んで歩くために、|歩幅《ほはば》をこちらに合わせているようだ。ずっと昔、|幼稚《ようち》園《えん》に通っていた|頃《ころ》の遠足みたいな歩き方だ。相変わらず|機嫌《きげん》がいいのだろうか。 「もっと早くこうすればよかった」  おれはただ、足を動かす。そうすれば進むから、足を動かしている。 「ね、ユーリ。あなたはもっと早くこうするべきだったんだよ」  もっと早く? どうするべきだったって?  それでもおれのすることに変わりはない。ただ歩いて、この地下を|抜《ぬ》ける。あの子達の居る施設を探し、|皇帝《こうてい》達の墳墓へと向かう。過去に決めた自分の意志に従う。あの頃の自分には、まだ決断する能力があったから。  歩いて、休んで、また歩いた。  王宮育ちのサラレギーにとっては、かなり|辛《つら》い行程だと思っていたのに、結局どちらも|音《ね》を上げぬまま、二人とも|疲《つか》れ果てるまで歩き通し、どちらともなく|眠《ねむ》り、どちらともなく起きては歩き始めた。何も口にせず、おれはろくに話しもしなかったが、サラレギーはずっと機嫌が良かった。それだけは幸いだ。  三日目の半ば頃になって、サラレギーが子供じみた|感嘆《かんたん》の声をあげた。 「ユーリ見て。|天井《てんじょう》だよ、天井。天井に穴が開いている」  言われて顔を上げると、確かにずっと高く遠くの方に、ぼんやりと白い円があった。 「穴……?」 「そうだよ。ああ、暗闇に慣れ過ぎて急には見えないかもしれないね。ここはとても天井が高い。城の|吹《ふ》き抜けみたいになっているんだ。ああ、これまで|狭《せま》いばかりの通路だったから、これだけ広いと気も晴れるねえ……どう? ユーリ、明るさに段々慣れてきた?」  おれは首筋が痛くなるまで上を向き、確かに光が射し込んでいるらしい白い円を|見詰《みつ》め続けた。あれだけの光が射していれば、ここも|薄《う》っすらとは明るいはずだ。自分の手も、サラレギーの顔もじきにはっきりするだろう。 「……ユーリ?」  ぼんやりと白い|人影《ひとかげ》が、こちらを|覗《のぞ》き込んでくる。おれは目頭を人差し指で|擦《こす》り、その|掌《てのひら》をじっと見詰めた。 「サラ、おれは眼をあけているかな」 「開いているよ、それがどうかしたの?」 「……顔が見えないんだ」  光と、光によって生まれる影は判る。でも顔も手も、石も地面も。 [#改ページ]  見えないんだ。  |誰《だれ》の名前を呼んだらいいのか、|判《わか》らない。 [#改ページ]  メガネーズ|+《プラス》F 「困ってしまってコンバンワワーン、コンバンワワーン。コンパルソリ、ムラケンズの|眼鏡《めがね》ッコって言われるのに|抵抗《ていこう》があるほうの村田です。そして|隣《となり》は、あまりのことに欠席の|渋谷《しぶや》兄弟に代わり、現在絶賛仕事中! のワーカホリック国際人、ボブです」 「もしもしフランソワか!? 大変なんだ、ジュニアが交通事故を起こした。店の前に|停《たたず》んでいた米軍士官を原動機付き自転車で|跳《は》ねとばしてしまったんだ。とぼけた眼鏡の男だが、|驚《おどろ》いたことに|大佐《カーネル》らしい。制服マジックの良い例だな。え、何だ、そっちは朝の四時? それはすまなかった。だがこちらも三時までに|治療費《ちりょうひ》を|支払《しはら》わないと、米軍に通報すると店側が言っている。まあ|提督《ていとく》に言づてしてもいいのだが、|一旦《いったん》通報されればジュニアの経歴に傷が付くだろう、そこでこれから言う口座に至急入金して欲しい。え、何だって? 最近そういう|詐欺《さぎ》が横行している? |怪我《けが》をした大佐の名前を言え? 名前はサンダースだそうだが……何!? 私がボブ本人である|証拠《しょうこ》だと? フラソソワ、お前を|雇《やと》ったのはこの私だぞ。雇い主を疑うつもりか? お、おい切るな、切るんじゃない! フランソワ? フランソワー!? フラン……くそ、フランソワめ……次回のタイトルを伝える間もなく切られてしまった」 「ああ、次回『箱はマのつく水の底!』のことねー。ていうかボブ、|尻《しり》に|敷《し》かれてる?」 [#改ページ]  あとがき  ご|機嫌《きげん》であります!   最近、|顎《あご》が割れてきた気がする|喬林《たかばやし》です!  割れるのは腹だけで|充分《じゅうぶん》です。しかも私の場合、横に割れてますからね、横に三段くらいにね。いえホントはですね、ご機嫌とは、|程遠《ほどとお》いところであります……。私は常々「本というものはどこからお読みになろうとも読者の|皆様《みなさま》の自由である。たとえそれが三一八|頁《ページ》であろうとも、たとえそれが奥付であろうとも」と思い続けてきた人間です。いいです、背表紙から読まれても。しかし皆様、今回ばかりは。今回ばかりは最初から終わりまで順番どおりにお読みくださることを切に願います。理由は申し上げられません。何故ならここでそれを書いてしまったら、ページ順どおりにお読みいただく意味が無くなってしまうからです。最初から読んでね、と|可愛《かわい》ぶって書いてみたり。まずはテマリさんの、ジタバタするなよ(世紀末が来るの?)というくらい格好いい表紙をじっくりとご覧いただき、それから本文をざーっと走り読みするのが正しい用法です。あっ、書店で|挿絵《さしえ》だけ見ちゃうのも|避《さ》けてください! 危険です。  さて、|随分《ずいぶん》間が開いてしまいましたが、やっと本編がちょっとだけ進行いたしました。お待たせしてしまい、申しわけありません。私の方はその間、公私ともに色々なことがあり、へこんだり|沈《しず》んだり落ち込んだり|崩《くず》れたりテンパったりしていたわけなのですが、ここにきてやっとどうにかなりそうな気がして参りました。人生には実に様々なことが起こるので、人間には|侮《あなど》りがたい立ち直り機能が標準装備されているわけです。よくできてるなあ、人間って。  そうこうしているうちにNHK BS2で放送中のマニメ(と呼ぼう! 胸を張って)が、教育テレビでも見られるようになっています。よい子のみんな、地上波で渋谷と|握手《あくしゅ》! そして|更《さら》に「月刊|Asuka《あすか》」では、松本テマリさんによるマンガもスタートしています。私は先程見ましたよ、次男の白い軍服(と渋谷のヒモパン半ケツ姿)を。てててテマリさん!? テマリさーん!? |素晴《すば》らしいです、テマリさん! では次は、マーメイド刈りポニをお願いします。|是非《ぜひ》とも。ぜ、ひ、と、もっ。  本編では、あーいうことになっておりますが(横でGEGが泣いています。|原稿《げんこう》遅《おそ》いからですよね? それだけですよね? G|違《ちが》います)、マニメ、マンガはまた原作とは|違《ちが》った楽しさ美しさ|面白《おもしろ》さです。どうぞ|宜《よろ》しくお願いします。そのついでにでも、原作次巻をたまーに思い出してくださると|嬉《うれ》しいのですが……あ、いや、三ヵ月に一度くらいの|頻度《ひんど》で結構ですから。  ところで、前巻からお問い合わせ多数のあの歌ですが「|Amazing《アメイジング》 |Grace《グレース》」という賛美歌をモデルにして書いています。もちろんヘイゼルは宣教しに行ったわけではないので、歌詞をそのまま広めてはいないと思いますが。   喬林 知[#底本では下寄せ]  注記   文中に何度も繰り返し出てくる単語について、入力者注を繰り返し入れるのも煩わしいと思い、以下にまとめることにした。  新前《しんまい》   本来、新前《しんまえ》とルビを振るべきかもしれないが、底本ではシリーズを通してこのように新前《しんまい》とルビが振られているので、これに従った。  掴   「掴」は底本では旧字「てへん+國」だが、unicodeしかないため、新字を使用した。  マ   単独で使われているカタカナのマ、および、マニメという単語のマは、○の中にマ。 底本:「宝はマのつく土の中!」角川ビーンズ文庫    2005(平成17)年9月1日初版発行 入力:suk 2005年09月02日作成 青空文庫ファイル: このファイルはインターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)のテキスト形式で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。